曇天、虹色地平線 剣と筆と はじまり


その人の絵をあちこちで見てきた。ひどく印象的な絵。それほど古いものでは無い。
おそらく旅の画家で、路銀の足しに描いているのだろう。まあ、その画家について知っているのは彼(彼女?)の作品のみなので推測の域を出ない。
道中の町や村で、時には宿屋、時には村長の家に飾られているというのもあったっけ。絵も無料では描けない。おそらく、破格の価格で売っているのだろう。
どんな画風と言えばいいのか、詳しくない俺には分からない。多分色使いが凄いのだと思う。どこかで誰かが、安価の鉱物絵の具を使っているのだと自慢げに語っていた。それなのに目を引く色の鮮やかさは名品の証拠だと。
別に評判になっている訳ではない。だが、いつの間にか行く先々の村でその画家が残した絵を探すのが楽しみになっていた。

その日。
ある村で何の気なく入った宿屋で、俺は少女に出会った。
比較的大きな町だ。でもこの盆地は山脈で外部から囲まれているためモンスターもほとんど出ない。モンスターに対抗して集まる必要がないぶん、町の規模は全体的に小さいのだ。
別に変わったものは無い。のどかな田舎の町である。
娯楽など求める術も無いので、俺は真直ぐ宿屋の看板の店の扉を潜った。
宿屋の中は落ち着いた…悪く言えば古ぼけた机や椅子が並べられている。しかし、どうやらその一角が騒がしい。男も女も、年代も、旅人も村人も関係ない集まりだ。
(何やってんだ?
芸人?それなら広場に集まるか…?)

人垣の中でキャンパスに向かっているのは一人の少女だった。後ろ姿なので顔も年齢ははっきりしない。腰までの長い艶やかな黒髪。ひょっとしたら俺よりも年上かもしれない。
そんなことよりも背中越しに見えた描きかけの絵の方が重要だった。一目でわかった。紛れも無く彼女があの画家なのだ。
どんな人なのか___今まで色々な想像をしてきた。そのどれにも近く遠い形で彼女はそこにいる。話しかけたいが、これだけの人目のうえ絵を中断させるのも忍びない。俺は端っこに座ってその光景を眺めることにした。

夕方が近付くにつれ人の波はピークになり、その後はだんだん減っていく。人が激しく入れ替わる中俺はただじっと彼女を見ていた。筆がキャンパスを撫でるだけの単純な作業から、どうしてこんなものが生まれるんだろう。
魔法みたいだ。
我に返ったのは彼女がキャンパスを片付け始めたからだった。見回せばギャラリーも随分減り、日も暮れている。今日の分は終わりという事なのだろう。今しかない。俺は立ち上がって彼女に歩み寄った。

「ちょっといいかな?」
出来るだけ優しく話しかけたつもりだったのだが、身構えて彼女は振返る。警戒しているようだ。もっとも俺には信用してもらえるような要素がない訳だが。
ドロドロの服に、明らかに普通の旅人ではない装備、いわゆる冒険者ルックの見知らぬ若い男。さらに帯剣してるし。そいつが無理なお愛想笑いをして寄ってくるんだ。しかもここは農村。まともな女性なら警戒するわな。
やはりこちらを認めた少女の表情は警戒で強張っていた。それと同時に浮かぶ表情は疑問。やはり話しかけるのは止めた方が良かったか…?後悔先に立たず。
「…何ですか?」
「君はイレス・シャロライナか?」
彼女は俺の言葉を聞くと、目を見開いて今の今まで描いていた絵に目をやる。彼女の今まで描いてきた絵の右端にあった署名。まだこの絵には記されていなかった。
「どこでそれを。」
「今まで通って来た村で君の絵を見たんだ。どんな人かと思ってたんだけど、会えて光栄だ。」
「…いえ、そんな。」
言葉は遠慮がちだが、彼女の顔から警戒の色が薄れる。変わりに出てきたのは喜びか。後ろ姿に比べて幼く見える彼女は、絵の具で斑に染まった大き目のエプロンの裾を正した。
指で擦ったのか顔にも色がついている。彼女もどろどろだった。そんな姿を見ると、ひょっとしたら同年代かもしれない気もする。

彼女は俺の姿を上から下まで目で追った。
「冒険者さんですか?」
「まあ…」
やっと気を許して貰えたと思ったのだが。問いに短く答える。冒険者以外に、まともに語れる肩書きを持っていないのが辛い。
今のご時世、冒険者に対する世間の心証は極めて悪い。クリーンなイメージなどもっての外である。それというのも昨今のモンスターの増加、強力化によって、富の格差は増大した。
モンスターと戦うのは特殊技能である。確かに一時冒険者が増大した時もあったが、そもそも俺らの目的は冒険。モンスターをやり過ごす事の方が長けている。自然とそういった仕事は町の警備団体や傭兵にとられていった。冒険者育成学校といったものは町などから運営資金を貰わざるを得なくなり、結果私兵と化してしまった。
食うに困った冒険者達は、冒険者を辞めるか、傭兵になるか…終いにはならず者になる奴も少なくない。モンスターを相手に戦うより人間を相手に奪う方が生存率が高いものな。
だから今の冒険者には昔から言われていた“社会不適応者”以上の悪評が付きまとっている。

「あの…私の絵、どう思いましたか。」
「へ…」
まあ、普通画家がファンに声かけられたら、そんな話がしたいんだと考えるだろうな。あいにく俺にはそんな知識ゼロだ。流れる冷たい汗。じっと俺を見ている彼女。
下手なことを言ったらがっかりされるだろうか。だからって知ったかぶりしてボロが出るのもまずい。思い出すんだ、俺は今まで彼女の絵を見て何を考えてたんだ?
ぽつりと、零せたのは一言だけだった。
「何を追いかけてんの?」
「…」
彼女は苦笑した。
…滑った!てか感想じゃないじゃん!少し悲しい気持ちになった。でも、少なくとも適当に言ったのではなかった。

「そっちで座ってお話しませんか?」
キャンパスの前に腰掛けていた彼女は、突っ立ったままの俺に話しかける。
怒られるのか…?
「お名前は?」
「レイ。レイ・ブリオッシュ」
「レイさん。私はイリス・シャポナリアです。」
…名前を読み間違えていたらしい。致命的だ!

「冒険者さんは何でもお仕事を引き受けてくださるって本当ですか?私でも頼めるんですか?」
いきなり尋ねられる。あながち間違いでは無いが…。
「まあ金が貰えるならな。」
「レイさんは今お仕事中ですか?」
「いんや。
…言っとくが俺は犯罪はしないぞ。」
「それは大丈夫です。」
彼女の瞳は真剣だ。机越しに身を乗り出す。
「私、山を越えたいんです。」

「山?」
俺は怪訝な顔で自分の右手、この盆地を作る山脈を指差した。
「護衛をしてくださいませんか。」
「止めた方がいい。向こう側はこっちからは考えられないほど危険だぞ。丸腰で街中も歩けない。」
この娘、世間知らずなのか?どうしてそんな所へ行きたいのか理解できない。
「話は聞いています。
それでも…」
「君、戦えるの?」
彼女は黙り、俯く。俺は畳み掛けた。
「冒険者学校があった時なら俺もこんな事言わない。仮に山を越えられたにしても、それから一人でどうするつもりなんだ?」
厳しすぎるかもしれない。だが彼女への憧れが、無責任に連れて行くことを拒む。死なせるのは嫌だ。

「けど…」
彼女は顔をあげ、こっちを見据える。か細いが芯の強い声だった。
「夢、なんです。世界を描くのが。」

彼女が求めているのは“世界”か。俺がここで彼女に諦めさせてしまえば、彼女の絵は変わってしまうだろう。それは筆を折るのと道義語なのかもしれないと気がついた。俺は作品越しに彼女に恋していたんだ。

「…いいよ。連れてってやる。」
「ありがとうございます!」
不安ではあるが、向こう側に行けば俺の知り合いもいるだろう。とにかく彼女の役に立てるのが嬉しい。

「で、いくらくらい持ってんだ?」
「えっ」
俺の言葉に、輝かせていた顔がたちまち曇る。また俯いてしまった。辛抱強く待つが、彼女の口から出た言葉は予想以上だった。
「100G…」
「子供の手伝いじゃないんだぞ。…宿に一回素泊まりしたら終わりじゃないか?」
「これが財布。」
無造作に出した袋を逆さに振ると、澄んだ音と共に100G銀貨が一枚だけ転がった。
「冗談じゃないんだな…。」
「うん。」
「それで本気で誰かを雇えると思ってたのかが不思議だよ!むしろどうやって今まで旅してきたんだ!」
「絵を描いて、交換に泊めて貰ってた。」
「安売りなのか判断付かないよ!」
彼女は何かを考えだした。どうやら本気だったみたいだ。

「100Gで…」
「お断りだ。」
「護衛中は宿代が無料というのは…」
「山の中に宿があると思ってんのか。」

ふむ。どうも進退極まったようだ。彼女は暗い顔して言った。
「さっきのお話は無かったことに…」
「じゃあさ。」
俺は彼女の台詞を遮る。相手を安心させるように微笑んでみた。こんな人間らしいやり取りは久し振りだ。
「仕事が終わったら俺の絵を描いてよ。」

きょとん、とされる。そういえば今まで見た絵に人物画は一枚もなかった。
「ひょっとして人を描いた事無い…?」
「まさか。」
彼女はくすりと笑う。打ち解けた笑顔だ。
「少しびっくりしただけです。…有難う。」

「そ、そうか?
てか、俺を信用してくれんのか?」
よく考えると傍から見たら俺側のメリットがほぼ無いようなこんな話__俺としてはあるのだが__下心があると思われても無理は無い。

「うまい話には裏がある、ですか?私は人を見る目はあるつもりですよ。それに…」
彼女は立ち上がる。画材を持った途端、絵筆とパレットが触れ合い音が立つ。
「私もあなたの絵が描きたくなりました。」



☆   ☆   ☆



様々な場所で絵を描いてきた。旅の思い出なのか、路銀を稼ぐためなのか。一つだけ確かな事は、そんな絵を喜んで貰ってくれる人がいる私は幸せものだということ。
次の村へ行き、旅が進む度にスケッチブックの下絵は増えていく。ラフと言うには書き込んでしまうのは私の癖だけど、すぐ旅先に置いてきた作品にどんな色を乗せたのか思い出すことができる。
多くの人が私の絵に価値を見出してくれる。私と絵画論を語りたい人もいる。でもそういう会話は好きになれない。そんな話は首都の芸術学校を出た人に任せたい。
錬金術で作られた色落ちしない絵の具も買えたことないのに、どうして鉱物・植物絵の具との使い心地の差なんて分かるだろうか。
ただ描きたいから、表現したいから描いてる。でも最近、新しい願いが一つ生まれていた。

そんな時
私は彼と出会ったのだった。

いつものようにこの村でも、キャンパスを広げると通り掛かった人が覗き込んでゆく。もう慣れた。今日は宿のおばちゃんが絵と交換に泊めてくれる。
絵を売り物だと考えた事は無い。だから私のやり方で宿屋を描く事にした。贈り物として。
ここは大きめの町なので、ひさびさに絵の具を売っているお店があるのが嬉しい。何かお手伝い探さないとなぁ。絵の具を買ったらお金が尽きてしまう。いつも手作りするけど、やっぱり売っているものの方が綺麗な発色するから、出費は必須だ。季節や土地柄、手に入りにくい色もあるし。
溜め息ひとつつくと、なんとかなるさと気持ちを切り替える。仕事着のエプロンを着けた。

目が疲れた。何気なく辺りを見るともう夕方を過ぎて暗くなっている。もう終わりにしようか。明日には描き終わるだろう。
慣れたと言っても後ろから人の視線を感じて描くのは肩が凝る。絵筆を洗いに行くのが億劫だ。キャンパスがある程度乾いたら布をかけた方がいいだろうか。

「ちょっといいかな?」
不意に横から声を掛けられた。いつの間に来たのだろうか、若い男が側に立っている。私の訝しげな視線にたじろいで、男は困ったように舌打ちした。
何者?泥だらけで、町の宿には相応しくない格好だ。まずお風呂屋にいくのをお勧めしたい。腰にさげられた剣に目が行って初めて、男が何者なのか合点がいった。
…冒険者。
「…何ですか?」
きつめの声が出ていた。冒険者崩れのならず者なのなら、トラブルに巻き込まれないとは限らない。
彼は引きつった笑顔で何かを言おうとしている。その笑顔は私を打ち解けさせようとしているのに間違いなかったが、それで騙してやろうと言うより、大型動物か何かの機嫌をとって逃げようとしている風に見えた。何なのか。私は猛獣か。

「君はイレス・シャロライナか?」
びっくりした。

何だか少し違うが響きはそのものである。この人どうして私の名前を知っているんだ。ぴったり合ってるんじゃない所がさらにうさんくさ過ぎる。
「どこでそれを。」
適当に誤魔化してサヨナラしようかと思ったけど、どこで私の名前を知ったのか。何者なんだろう。悪い奴なのかどうなのか見極めなくちゃ。

「今まで通って来た村で君の絵を見たんだ。どんな人かと思ってたんだけど、会えて光栄だ。」
「…いえ、そんな。」
私は相手を警戒させないように笑顔をとりつくろう。この話が本当ならとてつもなく嬉しい。でも残念ながら、こういうことは少しの情報があれば推測できることだ。
だからといって、それだけで純粋に話しかけてくれただけかもしれない彼に失礼なことはしたくなかった。
私は姿勢を正す。拍子に持ち上がったエプロンの裾を直した。話せばきっと見分けられる。

「冒険者さんですか?」
「まあ…」
手始めにどうってことない質問してみるが、返って来たのは短くはっきりしない答え。バツが悪そうに呟かれてもうさんくささは増すだけ。私はもう一つだけ質問することにした。

「あの…私の絵、どう思いましたか。」
特別なことを求めたわけじゃない。ただ純粋にそんなことが知りたかったのだ。
「へ…」
彼は更に困った顔をした。これは文学論をぶっこくのでなくとも、絵が好きなんて嘘かもしれない。見切りを付けようとした瞬間。彼は一言だけ呟いた。
「何を追いかけてんの?」
もちろんそれは私がどんな画家に憧れているのかと言うような絵面だけの台詞ではない。
思わず笑ってしまった。そのとおりだったから。なんで分かったんだろう。自分で自覚した事もなかったのに。なぜだかいっそう眉を八の字にする彼を誘う。
「そっちで座ってお話しませんか?」
今までこんな事誰も私に言わなかった。うさんくささよりも彼への興味の方が勝っていた。何となく信頼できる気がする。彼になら手伝いをしてもらえるかもしれない。私の夢を叶える為の。

「お名前は?」
「レイ。レイ・ブリオッシュ」
彼はもそもそと答えた。ここいらでは聞かない響きの名前だから、やっぱり向こうの人なのだろう。
「レイさん。私はイリス・シャポナリアです。」
ほんのり訂正しておいた。

「冒険者さんは何でもお仕事を引き受けてくださるって本当ですか?私でも頼めるんですか?」
さっそく本題を切り出す。彼みたいな人をずっと求めてきた。
「まあ金が貰えるならな。」
急に表情がきりりとなる。仕事の顔とでも言うのか。仕事を受けて貰えたなら命を預けることになるのだから、この変化は好ましかった。

「レイさんは今お仕事中ですか?」
「いんや。
…言っとくが俺は犯罪はしないぞ。」
「それは大丈夫です。」
私の願いは本来ならばとてもささやかだ。モンスターさえいなければ、一人でも叶えられる。ずっとそう思っていた。
「私、山を越えたいんです。」
「山?」
「護衛をしてくださいませんか。」
彼は素頓狂に聞き返し、右側を指差したと思えば納得し、最後に渋い顔になった。いい意味でも悪い意味でも表情豊かだなぁ。

「止めた方がいい。向こう側はこっちからは考えられないほど危険だぞ。丸腰で街中も歩けない。」
返ってきたのは厳しい台詞。そんなことは知っている。何とか山を越えられたとしても、それで安心できないことぐらい。だから飛び出すのをためらっていたのだ。
「話は聞いています。
それでも…」
行きたい。でも彼の言葉と、その突き付ける現実は痛烈だった。

「君、戦えるの?」
決定打だ。理想だけじゃ現実はどうにもならない。絵だって山を越えなくても描ける。解っているけど。
「冒険者学校があった時なら俺もこんな事言わない。仮に山を越えられたにしても、それから一人でどうするつもりなんだ?」
彼の声は苦渋に満ちていた。顔をあげられない。自分の考えが幼い事を思い知った。どんな顔をしたらいいのか分からない。彼は真面目な人間なのだろう。そうでなければ冒険者なのに、ちょっと絵を見ただけの人間をこんなに心配するものか。

「けど…」
諦め切れなかった。
「夢、なんです。世界を描くのが。」
彼の目をしっかり見据える。ただの私のわがままなのは知ってた。だけど。
あの人に絶対追い付く___
今までだって諦めてたら、ここまで来れなかった。
彼は瞳を一瞬微笑むように瞬かせて、相好を崩した。
「…いいよ。連れてってやる。」
「ありがとうございます!」
熱意が通じたのだろうか。今となっては彼以外と山を越える気が無くなっていた私は純粋に喜ぶ。

「で、いくらくらい持ってんだ?」
次の彼の台詞に凍り付いた。
「えっ」
何と言ったらいいのか。そうなのだ。人を雇うにはお金がいるのだ。とてもいままで考えもしなかったとは言えない。けどこればっかりは誤魔化せない。

「100G…」
「子供の手伝いじゃないんだぞ。…宿に一回素泊まりしたら終わりじゃないか?」
力の抜けた笑いで返される。冗談だと思っているらしい。別にこれでも絵の具を4本くらい買うには十分な金額だ。…いやまあ、人を雇うには程遠いのは解っているけど。

「これが財布。」
無造作に出した袋を逆さに振ると、澄んだ音と共に100G銀貨が一枚だけ転がった。じっと見つめた後、彼の視線は揺らいだ。
「冗談じゃないんだな…。」
「うん。」
「それで本気で誰かを雇えると思ってたのかが不思議だよ!むしろどうやって今まで旅してきたんだ!」
もっともです。
「絵を描いて、交換に泊めて貰ってた。」
「安売りなのか判断付かないよ!」
お金の変わりに貰ってもらえるような物は持ってない。それでも何か交換条件を出さないと、このままでは心配していたのと別の所で話が終了してしまう。

「100Gで…」
「お断りだ。」
「護衛中は宿代が無料というのは…」
「山の中に宿があると思ってんのか。」
きっぱり言われてしまった。これで生計を立てている訳だから当然と言っちゃそうだが、落胆は隠せない。

「さっきのお話は無かったことに…」
勢いだけの自分に後悔する。これが最大のチャンスなのは間違いなかった。これを逃せばもう山の向こうには出れないかもしれない。でも…どうしようがあるだろう?

「じゃあさ。」
その時彼が私の声を遮った。。お金もなく頼んでたなんて怒ってもいいくらいなのに、微笑を浮かべている。
「仕事が終わったら俺の絵を描いてよ。」

あまりにも意外な申し出。私の絵?とてもそんな価値があるとは思えない。
「ひょっとして人を描いた事無い…?」
私が驚きで黙ってしまったのをどうとったのか、見当違いの心配をしだす彼に訂正する。
「まさか。」
物好きだなぁ。けど嫌じゃない。
「少しびっくりしただけです。…有難う。」

「そ、そうか?
てか、俺を信用してくれんのか?」
こちらがいいと言ってるのだから何を気にしているのだろう。
キャンパスがどうとか、絵の具がどうとか、モチーフやアングルがとか。彼はそんな気取った話は全くしなかった。代わりにたった一言。けどそれがたまらなく嬉しくかったのだ。
「うまい話には裏がある、ですか?私は人を見る目はあるつもりですよ。それに…」
だからか、彼はニセモノじゃない。騙すような人じゃない、なんて思ってしまった。
「私もあなたの絵が描きたくなりました。」


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