ツユジは、赤い街だった。
うっそうとした森と森の間から現れる、煉瓦作りの町並み。
その中心にそびえる赤い城。
青空の元で見ればどんなにか美しいだろうそのコントラストは、黒雲の下くすんで見えた。
ナレーク首都ツユジの上空にだけ、一塊の雲が不自然に位置し豪雨を降らせているのだ。
雨音しか聞こえない。
ただ、暗がりに沈んだ城壁に黒いものが貼り付いている。
確実に通路では無い部分から、ちらちらと防戦する刃の反射が見えた時点で分かった。
「……崩されてる!」
額を流れる水を拭い叫ぶ。
「退いて。」
少女が前に進み出た。
その赤毛はしとどに濡れ、衣服も水を吸って重くまとわりついている。
しかし炎のように赤い瞳は見開かれ強い意志を宿している。不屈の意志の炎、それが彼女の能力だ。
「荒ぶる光、猛火の主。精霊我に従い、紅燃ゆる契約は施行されたし。
“朱花乱麗”」
呪文のタイムラグが酷く長く感じた。
辺り一面の水の気配の中に、炎の気配が生じる。
具現化される炎は先程と比べて弱々しい。
それでも十分ではあった。
一瞬にして炎が黒い影との間を詰める。
触れた途端、それは燃え上がり弾けた。
「んな………海の!?」
城壁を囲んでいたものはクラーケンだった。
ツユジには海が無いはずなのに。
どこから沸いて出たのか。
焼け焦げたクラーケンを泥に埋めていると、背後から物音がする。
ぎょっとして城壁を見返ると、煉瓦の壁には見事に人一人くらいなら通れそうな亀裂が入りっていた。
そこから伸ばされた腕が俺達を手招きしている。
「外は危険だ。
ここから入ってくれ!」
人間だ。
たどたどしい大陸公用語。
彼に招かれるまま、俺達はツユジの中に踏み込んだ。
「非常に助かった。御礼申し上げる。」
会釈した若い男は俺と同年代くらいだろうか。騎士甲冑を身に着けている。
ナレークの騎士か。
城壁の内側はトンネル状の屋根のある通路になっており、じかに雨は当たらない。
しかし煉瓦という材質からか、あちこちから水が染み出していた。
「アッシュ。交代だぞ。
……お前、何やって!」
「ガーランドさん。
この方達がクラーケンを倒してくださったんです。」
向こうからやって来た、同じく騎士甲冑を来た男は俺達を見るなり物凄く驚いてナレーク語で声を上げた。
当然だな。気付けば四人も人が増えているんだから。
それにアッシュと呼ばれた彼はナレーク語で説明する。
俺達が外部から来た戦力だという事と、現状を男はすぐに把握してくれた。
そもそものんびり会話していられるような状況ではないのだ。
この暗がりに沈んだままのナレークは、どう考えても魔物の攻撃の渦中にいるのだから。
その場をガーランドに任せ、通路の向こうに行こうとしたアッシュは、俺達を見返って穏やかな笑みを浮かべた。
「来るかい?
ちょっとした食べ物くらいは分けられると思うよ。」
どこに行くのかと思えば、木戸を開けて外に出、近くの民家に連れられる。
城壁の中への入口の隣りにあるからか休憩場所として提供されたようだった。
何人かが休息をとっている。
皆揃って泥まみれで、髪などはまだ乾ききっていないようだ。
おそらくごく最近、まだ数時間程しか遡らないうちに大きな襲撃があった。
同じ事を嗅ぎとったのだろうコニスティンは、早速あちこちの集団に顔を出し、パーティのリーダーらしい社交性を発揮していた。
リィナは当然ナレーク語がペラペラなので、魔術師グループに顔をだしている。
マルコは何故だか騎士達に大人気である。何を話してるんだ?
年が近い事もあり、なんとなく俺とアッシュは側に座った。
さも当然のように俺の分のパンを渡される。あのハーピアを見てから全力前進で来た身としては、正直ありがたい。
まだあのクラーケンの焼ける匂いが鼻に残っている。
「それにしても美味しそうな匂いだったね。」
「あれは焼きすぎだったぞ。
墨を食うようなもんだ。」
俺達は顔を見合わせ、ちょっと笑った。
「私はアッシュ。
ナレークの公国騎士だ。ひよっこではあるけどね。
地方から出て来たんだけど、ここが雇ってくれて本当に良かったよ。」
他の騎士達はナレーク語できっちり敬語を喋っているのに対し彼はたどたどしい。大陸公用語に至れば何とか喋っているという感じである。
それでも横柄や粗野なイメージを抱かせないのは、人の良さそうな瞳と、知的で穏やかな物腰から来るものだろう。
「俺はレイだ。」
「レイ……くん。」
「レイでいい。
俺も駆け出しなんだ。」
するとアッシュの奴は、こう言いやがったんだ。
「じゃあ新米仲間だ。」
俺はここにきて初めて、自分と同じ立場の人間に会えて正直嬉しかった。
大きく頷く。
「お互い頑張ろう。」
傍らに立つのは、互いに切磋琢磨できる存在。
何故か冒険者の街の、あの少女が浮かぶ。
“俺らしくもない。”
自分らしさって何だったろう。
そう思いながらも、この言葉は既にお守りと化していた。
雨の向こうに列をなして。
耳障りな鳴き声がやって来る。
対照的に泥に這う奴等は、音も無く湧き出づる。
止む事のない豪雨が人々の心を曇らせる。
「来た…?」
ハーピアとクラーケンが手を結んで襲って来る。
にわかには信じられない話だろう。
空の魔、海の魔が何を通じて協力体制に入るというのだ。
しかし俺達は、あの金色のハーピアを目にしていた。
あんな奴等がいるのなら、あながち不可能な話ではないのかもしれない。
少なくとも現実問題、実際そうである今はこんな事すでに問題にしている場合ではないが。
城壁の上は人が行き来できるようになっている。俺とアッシュは他の奴等と共に、そこに身を隠して様子を窺っていた。
ここから遠距離攻撃を食らわせる作戦のようだ。
「直接奴等と戦わないのか?」
「そうできたらいいんだが。
戦闘に参加しうる人材はいる。
でもツユジにいる人間自体が少な過ぎる。」
魔術師の聖地と呼ばれ、魔具製作に精通していると言えど、それは特化しているだけなのだ。
外部からの人々の流入は多い。しかしすぐに通り過ぎてしまう。
ここが特殊な製品を作る工業都市であり、彼らは商人だからだ。
「心配そうな顔しないでいい。
幸運な事に、ここはツユジだ。
魔術師もいるし魔具もある。
君達も来てくれたしね。
最悪、ブールの援軍までもてばいいんだ。」
俺達が助けたのは、ブールへ援軍の要請をしにいく伝令だった。あの後息をふきかえした彼は、近場の宿で馬を手に入れ任務を果たすと言っていた。
だがどう贔屓目に見ても援軍まですぐとは思えない。
しかし確かに人材は粒揃いである。
門を開き肉断戦をする事はできないが、敵がモンスターだろうが正面から負けるなんて有り得ない。
思わず身震いする。
だから奴等は持久戦に持ち込んで、外側から城を壊そうというのだ。
見回すと皆が疲れた顔をしている。
雨が確実に秒刻みで体力を削っていた。
この戦い、既に消耗戦なんじゃないのか___?
うじゃらうじゃらと湧いてくるモンスター共はどんどん数を増していた。
その先方が城壁に到着するなり、誰かの術が薙払う。しかし一匹二匹ずつ屠っても数の脅威は変わらない。
リィナの炎が数を減らしていくが、やはり炎精の確保に無理があるのか、いつもの十分の一の威力もなかった。
「消耗が激しすぎるのに、殆ど威力が上がらないの。
あたし………それほど力になれないかもしれない。」
「大丈夫さ…多分。」
いつもが信じられないほど、リィナの声は弱々しい。コニスティンの返事も歯切れが悪かった。
クラーケンに特効が効いているのは炎だ。
でもここは陸上。炎でなくとも倒せる。
それが救い。
ちなみにマルコはパチンコで大活躍だったと明記しておく。
モンスター達はしだいに俺達の攻撃がギリギリ届かないくらいの位置に止まり始めた。城壁から一定の距離をあける形でこの街を包囲したのだ。
奴等は揃ってじっとこっちを眺め、一斉に襲いかかる時を待っている。鳴き声一つないのが不気味でならない。
多すぎる。
精神力を削る睨み合いを遮る声。
雨音を潜り抜け耳を打つ。
『___雷鳴来たりて天地結ばるる。
蛇、我が主、この肉体に生命を授けし尊き力よ。』
力ある言葉だ。
それは雨のベールを切り裂く剣。
誰もが静まり返り、裁きが訪れるのを待つ。
大気を力の気配が塗りつぶすのを肌で感じた。
澄み切った声が詠唱を終了するなり、流星のような線が空を彩る。
『“鋭落雷槍”』
歓声。
誰もの表情から暗いものが払拭される。たった一声で皆の不安や焦燥___もしかすると疲労まで___を取り払ったのだ。
天空から投げ掛けられた光の網は、覆ったモンスター達を焼き滅ぼした。
呆れるほどの威力だ。
「うわぁ………一網打尽だぞ。」
文字通りにな。
「…………アヴェラルド様!」
アッシュが始めの一声をあげると、いつの間にやら皆が思い思いに叫び始めた。それこそ勇者の名でも呼ぶように。
声の主を探す。誰もが指をさすのですぐ分かった。
そうか、あれがナレーク魔術公国王配。女王サラフィーを支える魔術師。
城の塔に佇む人影は遠すぎて分からない。かろうじてローブがはためくのが分かるのみ。
だというのにその声はここまで届いて、皆に力を与えたのだ。