舌を噛みそうな大きな揺れは収まりはしたが、未だに足下が微弱にも揺れ続けている気がする。
どこかしらが崩壊し続けているのだろう、と判断して、アヴェラルドはサラフィーの手を引いて足速に煉瓦の階段を移動した。騎士達を護衛につけてはいるが、狭い階段で戦闘になりでもすれば何の意味もない。
城郭の中心部に巨大な穴である。相手にとってのただの移動が、自分達にとっては重大な被害だった。
しかしこの城が石であっても保ったかどうだか。
そして直接目にせずとも、本能としか言えないものが、突如現れた敵の本質を伝えてくる。
太古の力、その断片。
魔物との戦いは、魔法が大きく鍵を握る。その敵が強大ならば強大なほど…。
ならば私が出ずして誰が行けるだろう。
塔を降りきり、非戦闘員を非難させている区画の寸前まで来て、私の足は止まる。
「ここから先は御供できません。」
一緒に行くとばかり思っていたのだろう。愛すべき女王は戸惑い僕の考えを探ろうとする。
しかし聡明な彼女にそれほど時間は必要ない。あまつさえその意味を推し量ろうとするのにすら十分だった。
「どうして………私が王だからですか?」
僕が死地へ赴く理由。
そんなものであるはずがなかった。
「僕個人が、貴女を失いたくないからです。」
全てをかけて貴女を守ろう。
重ねた手を外す。かじかんだように指が上手く動かなかった。
「待っていますから。」
踵を返した僕の後ろ姿に掛けられる声。
臨むべき戦いの結果の予想は付いていた。
だから待つ必要はないと告げなくてはならない。
しかしそれができなくてどうしようもなくて、笑ってみせた。
優しく、なおかつ何処までも他人行儀に。
二人が出合ったあの日のように。
甘い思い出は白昼夢のように過ぎ去る。しかしその余韻に浸ったままでは現在を戦えない。
彼女の元から離れ、彼は静かに心を殺した。
非戦闘員の保護区画を守っていた騎士を引き連れてはいるが、とても足りない。だが贅沢を言える場合ではない。
少しでも遠い場所で戦わなくては。
龍はおそらく来る。
こちらが奴の存在を感じるように、龍もその嗅覚で僕達の存在を知っているだろうから。
乾いた咳と、そのせいで口内に広がった慣れた鈍い味を飲み下す。
急がなくては。
精霊が我が身を連れ去る前に。
軽快な足音とともに廊下の角から誰かが飛び出した。
「アヴェラルド様っ!?」
出合い頭の若い騎士はぎょっとして足を止める。
顔をはっきりとは覚えていないので、おそらく見習いか新任なのだろう。きらきらした瞳でこちらを見ていたような気がする。
彼は一人、しかも頭から水びたしだった。それだけで外の状況が知れる。
アヴェラルドは僅かに眉をひそませた。楽観できるほど世間知らずではない。
しかし援護できる余裕などあるはずがなかった。皆を信じて、自分のすべきことをするしかない。
この国が内部から食い潰されない為に。
こちらの目的を知った若い騎士は即答した。
「御供します!」
相手は龍。ともに戦う仲間は多い方がいい。
例え僕自身すら、時間稼ぎにしかならないといえども。
自分自身に非情な判断をくだしたように、彼の申し出を受けるのも極真っ当。
それなのに僕はそれを許可しなかった。
「………いえ。
貴方は僕の後ろを守ってください。」
僕の後ろの、守るべき人を。
後方を指差す。
その先が指す区間を悟ると、若い騎士は大きく頷く。
「…御武運を、お祈りします。」
言うなり、彼は僕の側を走り抜けた。それは自分の表情を見られたくないが為の行動に思えて、実際そうであるのだろうし、思わず笑みが零れた。
堅く歯を食いしばったその一瞬の横顔を思い出す。
こんな僕でも誰かに影響を与える事ができていたらしい。
浮かんだ羨望は、彼を行かせた理由と同じだった。
彼は、遠いあの日僕も持っていたはずの、若い希望に溢れていたから。
雨は止みそうにない。頭から足先までびっしょりだ。濡れた衣服が動きを妨げる。比較的薄着だったのが、まぁ幸いだと言えるだろう。
濡れたグリップが滑るのももろともせず、レイはどうにか刃を力一杯叩き付けた。
クラーケンの長い脚が軒に巻き付き踏みとどまる。
何体斬ってからか滑りを帯びて、切れ味を失ってしまった剣は、もはや打撃武器と化していた。
街路は許容量を余裕で超えた水を浴び、今や全体がぬかるみとなっている。
半端に敷かれた煉瓦の上をずるりと滑って、よろめいた瞬間、避けようもなく頭から墨をぶっかけられた。
呪言を出し惜しんでいられる状況じゃない。
「龍牙…斬っ!」
毒液じゃなくてラッキーだ。この雨のおかげで視界を奪う効果も最小限である。
刃に沿って生じた白銀の輝きはクラーケンの胴を真っ二つに切り裂く。
訓練では有り得なかった肉と骨を断つ感触___それに付随するものに気付かないふりした。
しかし骨までは綺麗に断てなかったようで、歪に突出した骨に引っ掛かった肉が、自重で引き剥れた皮にぶら下げられている。
イカの体液の___ミソの生臭い臭いが鼻を突いた。
「…………うっ、ふぐっ…。」
幾度目かの吐き気を堪える。
自分の倍以上はある体長の死骸から湯気が上がっていた。
何でだろう。
こいつはモンスター。ただの軟体動物だ。
だというのに何を俺は恐れているんだ。
視界の端で、たった今自分が切り落とした脚が、引きつるように痙攣する。
無意識のうちに両手を擦っていた。
落ちない。
臭いが落ちない。
こんな雨の中なのに、身体中を雨水が流れているのに、纏わりついた生臭い臭いが取れない。
何がいけないんだ。
顔っ面の表皮一枚残して、パニックに飲まれつつある自分を自覚できない。
閃いたアイディアは酷く真っ当に思えた。
浸せばいいのだ。
もっとたっぷりの水の中に。
「レイ!」
自分を呼ぶ声に振り返ると、焦りきった顔の仲間の姿。
そこでやっと自分が雨と体液が混ざり合う中に座り込んでいた事に気が付いた。
「…………コニスティンさん。」
俺は笑顔を作れたと思う。
なのに何故か彼は悲痛な面持ちで、俺の腕を掴んで引っ張り立たせた。
この雰囲気を知っている。だから俺は、彼が何かを言う前にこう言ったんだ。
「大丈夫ですよ、俺は。」
ただどんなに思い出そうとしても、自分がその時どんな表情をしていたのか分からない。
「だから子供だって言ったんだ。」
子供にやるように頭をわしゃわしゃ撫でられる。その腕は大きくて温かい。
子供じゃない、と言い返したくても。
彼の身体からも自分と同じ臭気が漂っているのに気付いてしまって、ぶり返した吐き気を堪えるのに精一杯だ。
「いいんだ。無理に笑わなくても。」
コニスティンの強い言葉は、闇を払うランプのように俺の視界を開いた。
「俺達がやってるのは殺しあいだ。殺戮だ。惨たらしい行為なんだ。
だから泣いたっていい。」
言葉にされてやっと自分が、どんな表情をすればいいのかずっと迷っていたのに気付かされる。
人として行ってはいけない行為。
心が尻込みし、嫌悪する。
震える声を押さえようとは思わなかった。
「奴等を斬れば、斬れるだけの力があれば、何かが変わると思った。燻り続けるこの衝動を手放す事が出来ると思った。」
自分に不幸があったからって、何をしてもいいことにはならない。
「でも違うんですね。」
奪われたからって、奪っていい訳がない。
「俺にはもう___分からない。」
武器がこんなにも重いなんて久しく忘れていた。
涙でも流せれば楽になれるのか。
でもその一線を越えてしまえば、何とかしがみついてきた全てを放り投げてしまいそうで。
自分は決着をつけるどころか立ちすくんだ。思考が先に進むのを拒んだ。
だが、その言葉を相手は肯定する。
「そうだな。
しかしこれは___正しい事だ。生き残る為の必要悪だ。」
俺には言葉がなかった。
釈然としない気持ちだけで、それを論理的に組み立てる事が出来なかった。
「お前は、それを受け入れられるか。」
音も無く俺を見つめたのは、強いがゆえ悲しい瞳だった。
こんなボロボロの状況の中で瞳ばかりが力を失わない。失ってしまえば折れてしまうと自ら知る悲痛さ。
俺達は冒険者なんだ。……武人じゃない。
年齢なんて問題でない。ただそれだけが重要なのだ。
自分は今になって初めて、彼が再三言っていた意味を知った。
俺は、確かに子供だ。