魔術公国の龍殺し 6 初めての龍


壁を破るよりスムーズに、地響きを鳴らすよりスマートに、非戦闘員を匿っている地区に近付く。
後方頭上からの咆哮が建物を揺らせた。

「ヒュドラはきちんと御仕事を始めたみたいねぇ。
あたしのお相手も向こうから来てくれれば早いんだけど。」

長い柄物が振り回せるようになのか、魔術を公使しやすいようになのか、この城の通路は世間一般に比べて天井が開けている。この場合裏目に出たそれは、本来ならばそれ程までの欠点ではないはずだった。
広めとはいえ、翼を持つ魔物が易々と移動出来る程の幅のはずではないのである。
それを可能にしているのは金色のハーピア彼女個人、ユーカリッサの身体感覚によるものが大きかった。

「早くしないと……着いちゃうわよぉ?」
彼女は既に幾人かの騎士を屠っていた。天井近くを飛行すれば攻撃など易々当たらない。兵士相手など作業としか感じられず、既に退屈は極まりつつあった。
全ては女王サラフィーを隠れ場所から引き摺り出す為。
彼女が姿を現さないまま避難地域に着いたなら、非戦闘員を一人ずつ血祭りにあげてみるのも仕方がない。

しかしそんな心配は不必要だった。
ナレークの国王として、彼女の取るべき行動など始めから一つしかないのだから。

「女王サマ。お相手お願いしても?」
僅か数人の騎士___事実、彼女の身辺に配置できる騎士は既にこれだけしかいないのだろう___と共に立ち塞がった女王。
初対面の女性の、気品ある面立ちに湛えられた表情は堅い。
「分かりました。…来なさい。」
彼女の唇がそっと“力ある言葉”を紡いだ。

「集え我が紋章の元に。我が盾、土の精。魔術獣(キメラ)に従いし力よ。」

大気が震動し始める。
ナレークの王族、女性。それゆえの必然。

「___アースクエイク!」
彼女は、魔術師だ。





上気した肌を氷雨が冷やしていく。額に張り付いた髪を払い、深く息を吐く。
暗い空からは大粒の雨が一時も止む事なく降り続いていた。いつまで本降りなのだろう。もっとも、それはこの戦いに決着がついた時に違いないのだが。
そして、この手。
___まだ震えてやがるのか。

「よし、みんな大丈夫だな?」
盛大にくしゃみしたコニスティンは皆を見回す。フードで雨を防ぐ事はとっくに諦めたらしいリィナが微笑みを返した。
「ええ。…ちょっと疲れたけど。」

山場は越えた。今は会話できる余裕さえ生まれている。
中に侵入したクラーケンはあらかた排除できたし、後は城壁の奴等で対応出来るだろう。敵の補充に制限があるらしく、海が側にない事が幸いした。
そして俺達は半ば街路で戦っていた事もあり、比較的城に近い。

「はい、次は城内の援護に行くぞー。」
「おっけー!」
子供を引率する大人のような口調のコニスティン。答えるマルコはまだ余裕があるようだった。器用さも相まって、城壁の応急処置だの何だのと駆け回っている。今回一番活躍したのは彼ではなかろうか。
んで、俺は。

誰の目が自分に向けられたかなんて、見なくても分かる。
「レイはどうする?」

__“もう駄目だと思ったら脱退するって無理せずに正直に言うんだよ。”__

「……大丈夫だ。行く。」

まだ大丈夫なはずだ。
歯を食いしばってでも逃げない。
幾度となく繰り返した筈の言葉は、どこか空しい響きがした。





ナレークの女王が操るのは、地の魔術。
天を領分とする私には届かない。届くはずがない。
さらにその上。

「ここは室内ですわよぉ!」

動かす土が無ければ、何の意味もない。
ユーカリッサは微動だにもせず威厳を保つ女王に躍りかかる。

その視界が、急に狭まった。
「………!!」

左右にそびえた、不動であるはずの煉瓦の壁。それが眼前で組み変わる。
幾万ものパーツが各々自在に蠢き、まさに生きているがごとく波打っている様は、巨大な生き物が身を震わせ攻撃態勢をとったように思える。

煉瓦の原料は…土。
文字通り、ここは彼女の“城”。
女王が浮かべるのは会心の笑みか。

「我と我が庇護者に仇為す者を滅せよ!」

四方の煉瓦がハーピアを囲み、押し潰そうと迫る。鮮やかな羽根が煉瓦の赤茶けた色の中に見えなくなった。
「やりましたか…!?」

『包みなさい。天空の衣___。』
暴力的な音とともに、煉瓦の塊が弾ける。
風の魔法に打ち砕かれた、と気が付いた時には、サラフィーは自身の頬に冷たい汗が流れるのを感じた。

「場が悪いのはあたしの方なのねぇ。
でも、女王サマ。ごり押しじゃ、魔術は魔法に叶わないのよぅ?」

全くの無傷で、何の動転も見て取れないハーピアの瞳がこちらを向く。
突如の悪寒に、サラフィーは周囲の騎士達へ叫んだ。
「散りなさい!」

来る。

「次は私の番でよろしくて?」
ふっ、と翼が優美な曲線を緩やかに描く。
次の瞬間、生成された圧倒的な質量は、ある一点……ずばり銀髪碧眼の女王に向けて放たれる。

「我が盾、っ……ああっ…!」
巨大な竜巻を防いだ防壁が、穿たれて赤茶けた粉塵を撒き散らせた。視界が塞がれる。

「あ〜らぁ♪」
視界が晴れ、露となった状況にユーカリッサは満足げに笑った。

彼女の足下と、サラフィーの傍らの壁があったはずの部分には、大きな風穴があいている。それが竜巻によって出来た物でない事は、綺麗に抜き取られた断面からも分かる。
そして風圧にやられて髪と衣服は乱れているが、サラフィーに大きな傷は見て取れなかった。
煉瓦の厚い壁を作る事で攻撃を防いだのだ。抜き取られた煉瓦はその材料に使われたのである。もっとも、今では殆ど消し飛んでしまってはいたが。
それとは対照的に、騎士達はまるっと無事である。見事に風の爪痕は女王の周囲のみを削り取っていた。
「随分と楽しめそうですわねぇ。」

こんな状況で無ければ、黄金の鈴が震えたとでも評したであろう笑い声。その声を尻目に、女王は駆ける。
その黄金色したハーピアの目が、初めから自分一人だけに向けられているのを悟って。
「付いて来なさい。」
騎士達から、避難区域から出来るだけ引き離さなくては。
「何処へなりとも。でも、地獄の底までは行きかねますわぁ。」





「ひやっ!?」
「またか…。派手にやってくれちゃうなぁ。」
轟音と共に天井から、ぱらぱらと煉瓦の欠片が降り注ぐ。その音源に近付けば近付く程、震動も大きくなるのは当然だった。
これは何処かで誰かが戦っている証だ。

城自体の崩落はまだ本格的には始まる気配がない。おおかた強化魔術が働いているのだろうが、通路が残っていてくれて助かった。
城内だというのに、あちらこちらにある水の流れに、そう悠長な事も言ってられないのだが。

そしてとうとう、手近な音源がぴたりと止む。
後には不気味な沈黙が遺される。歓声も、咆哮も………ない。

どちらかが屠られなければ終わりは来ない戦い。
軽い頭痛を感じてレイはそっと眉間を押さえた。
このまま沈黙が続けば、勝ったのが魔と人のどちらかは分からない。それならば確かめるまでは、客観的な現実は確立されていない。少なくとも誰も死んでいない、なんて。
馬鹿げた事に、“現実を確定させる”なんて夢想が怖くて、勝手に自分の歩を進める速度が僅かに遅くなる。

その時、上階を揺らす確かな震動。それは人間どころではない、大きな生き物の足音と思える。

誰もから血の気が引いた。
「………急いで!」
身軽なリィナとマルコが人一人分ほど先行する。早口な呪言の詠唱が始まった。
まさにすぐ上のフロアなのだ。ここまで来て。
天井が崩れている部分で、幸運にも上階によじ登る事が出来た。

視界に飛び込む青空。
天井どころか上階の数フロアがぶち抜かれて、いびつな吹き抜けになっている。
そこに激しい雨が降り注いでいたが、それはまるで真直ぐ天から降ろされた無数の白い糸のように見えた。

しかし彼らが釘付けになったのは、そんなものにではない。
その中、雨のベールに包まれて、佇む巨大な黒い影。
その周囲に広がる水溜まりからは、とても湯気とは思えない煙があがっている。

それは古の力を湛える海獣。
その首は九つ。
その龍の眷属の名は、サーガの授業で聞いた事があった。

「ひっ……ヒュドラぁ!?」

驚愕のあまり頭の中が真っ白になる。おそらく剣技のちょっとした練習試合で、武器にかの魔剣ダーインスレイヴが出て来たくらいの衝撃かもしれない。
「な、なあ…マルコ。
俺、世の中舐めてたわ。外にはこんなのがゴロゴロいんのか……。」
「いるわけないじゃん!
駄目だよ……これはっ…こんなの…………死んじ…っ!!」
マルコは俺の手を引いて、階下に引き返そうとした。

「誰か?」
ノイズ混じりの不明瞭な声と共に、“それ”がこちらへ頭を向けた。

「…………ぁっ!?」
一瞬のうちに足が地面に縫い止められる。
見られただけだ。
それだけなのに、身体が竦んで動かない。

取り乱しきったリィナが悲鳴にも似た叫びをあげる。
「どうしてこんな所に!普通冒険者も訪れないような洞窟ダンジョンの奥深くとかにいるものでしょ!?」

頭の中で警鐘が鳴り響く。
まずい。まずい。まずい。まずい…!!
プレッシャーの重さに潰されてしまう。
このままでは死ぬ、それがわかっているのに____具体的な行うべき行動が思い浮かばない。
自己を主張する心臓の鼓動が、耳鳴りのように自分の頭の中でまで脈打っている。
あのハーピアに向かい立った時に俺を支えていた、あの一本立った強い思いが自分の中には完全に失われていた。
意識を失いでも出来れば良かっただろう。しかし恐怖がそれを許さない。
恐怖だけが確かだった。

「弱きものに相対せしば、かようであらざるらん。牙を持たぬ物共よ?」
ドン、と上階の縁が崩れ、吹き抜けから見える空が広くなる。
ヒュドラのにやけた表情を見て気が付く。上がって来た穴は埋もれてしまっていた。もはや使うのはままならない。
背後通路が続いているが、ここを逃げるにしても無防備な背中を見せる事になるだろう。

「その血と肉をもって我を楽しませざるならば去れ……彼岸の果てへと。」
びりびり、と大気を震わすノイズは、血に飢えた捕食者の余裕そのものであって、まるで嘲笑であるかのようだった。

考えろ。考えるんだ。
しかし混乱しきった頭の中に、流れ始めた走馬灯が思考を阻む。焦るばかりだ。
打開策を求めて、瞳だけがひっきりなしに彷徨う。しかしその瞳が見つけられたものは希望ではなかった。

そこかしこにボロきれの様に転がっているのは、人間。

気付いた途端に足に震えが走る。
これが俺の未来。
刹那、折れようとした心を、傍らからの張った声が奮い立たせた。

「皆。戦うぞ。
必ずこいつに勝って、生き残る。それしかない。」

身体が自由を取り戻す。
縋る様に俺は剣を手にした。武器は変わらず、いつもにまして重い。
不意に骨を断つあの感触が蘇る。
しかし頭を埋め尽くす恐怖が、それ以上の思考を奪った。

ああなりたくなけりゃ___戦うしかない。

inserted by FC2 system