魔術公国の龍殺し 9 ドラゴンキラー


「分かりましたね?さあ、早く。」
聞き分けのない子供を諭すように、サラフィーの言葉は優しくも譲らない。
彼女の中には、ひとつの確信が生まれていた。
これだけ言ったのだから___分かってくれる。

しかしアッシュはサラフィーを見ることもなく、一言答えた。
「その御命令には従えません。」
「どうして。」
分かってくれないの、と女王が続けようとした言葉を騎士は遮る。
「あなたを御守りする、それが…私の忠誠です。」

「んふっ。砂糖菓子みたいに甘ぁい夢物語みたぁぃ。」
羽音を鳴らして黄金色のハーピアは身をよじらせ、くすくす笑った。
彼女の周囲に他のハーピア達が展開する。

「んじゃあショータイムの始まりねぇん。」
「ま、まだ__」
「あはっ、嫌よぉ?
勘違いしないことねん。あたしは親切だから待ってさしあげたんじゃなくってよ。」
黄金色のハーピアの周囲に、数多のハーピアが展開する。
まだこんなにいたのか。

「まず数を減らすのが先決……ですね。」

槍を握る。
大丈夫だ。
きっとまだ保つ。

「“衝撃波動オーラインパクト”…っ!」

呪言の勢いを原動力に、槍を支えに垂直に跳躍する。
ぐん、と上昇した視界はハーピアと並んだ。

「攻撃さえ通れば、君たちは…」
武器を握る手に力を込める。
「…さほどの敵ではないんだよ。」

槍高跳びの要領を応用する。
縦向きに働く高跳びの力は、自分を空中へと移動させた。その力を横向きに利用すれば、自在に空中を移動する原動力となる。

翼と呼ぶには不格好だが。
まだ、希望はある。

「さぁ、みんなぁ。頑張ってねぇん?
窮鼠猫をなんとやら、ってね?」
黄金色のハーピアの羽音が、ずいぶん重く聞こえた。





「雨が……止んだ!」
唐突に降り注いでいた雨が止み、雨雲が風で散り散りになっていく。
雲の晴れ間から差し込んだ一筋の光が、傷を負ったヒュドラを照らした。
それはまるで、俺達の勝利を予期させるようで。

「黒雲が……奴らが連れてきた雲が……。」
自分の一撃が鍵だったくせに惚けているガーランドを押しのけて、リィナが前に駆け出る。
声が弾んでいるのは気のせいではなかった。
「チャンスね。あたしの見せ場よ!」

無理もない。
この光は、この暗闇の中で戦い続けていた者達にとっては、微かにも灯っていた希望の炎を燃え立たせる起爆剤だ。そしてリィナにとっては、押し込められていた枷が取り払われたのに相違ない。

勝利はもう、手に届く所に___。

「痛い……痛い、痛い、痛い痛い痛い!」

「…っ!?」
一瞬、足の自由を奪われる。一気に冷や汗が吹き出した。
あの眼だ。
猛烈なプレッシャーは、呻き声をあげる龍の、あの憎悪に満ちた眼から放たれている。

弾みだした心が、冷水をかけられたように冷え込んだ。
「死なぬ、我は。死なぬ___。」

ヒュドラという龍の特性。
超絶的な再生能力。
形ある絶望がみるみる力を取り戻していく。

「怯んじゃいけない。畳みかけて!」
マルコの叫びがなければ、俺はずっとヒュドラの再生を最期まで眺め続けていたろう。
死が具体的に夢想されすぎるがために抵抗もできず、魔物に喰われる生け贄のように。

リィナが詠唱を開始する。
そうだ、今。
俺も今、戦うんだ。
一人の冒険者として。

ヒュドラは先ほどとは違い身を引いているため、毒の沼を飛び越えなくては直接攻撃は届かない。
しかしヒュドラはこの体格である。その身体のどこだって足場になるだろう。
雨が止み、毒の沼も階下へ流れ落ちる一方で、しだいに小さくなっていっている。
いける、いけるはずだ。

なのに、どうして。
足が一歩も前に進まないのか。

コニスティンも呪言を詠唱し始めた。さっきの風の刃だ。
二人とも一気に決める気なのだ。

首の全てが回復するまでには、まだ時間がかかるだろう。
だが、龍は俺たちに向かって、おもむろに真ん中の首の口を開いた。

身を凍らせる光が、その奥に覗く。

「…嘘。もうブレスが吐けるの!?」

完全な読み間違い。致命的なミス。

全滅……洒落にならない言葉が現実味を帯びる。
そんなもの一撃でも食らったら死んでしまうのに、誰も今この瞬間に行動ができない。
いや、“俺以外”誰も動くことができない。

走り出していた。
前へ。

背を向けても立ち止まっても死ぬなら、出来ることは一つしかないのだ。

しかしこの時、脳内はそんなに冷静に物事を考えられたわけではなく、むしろ逆だった。
畏れで溢れきった思考は、壊れたように繰り返す。

死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。

もはや他人の事なんて、思い出す余裕もない。

心臓が脈打つ度に溢れ出す叫び。
見えない喉は枯れ果てて、叫ぶ度に血を吐き出す。
頭の中まで脈打ってる気がして……吐きそうだ。

「…“跳躍”!」

呪言行使の目測を誤った。ふらつきながらも何とかヒュドラの胴に降り立つ。

ヒュドラと視線が交差する。
その瞳は、俺と全く同じ一言を今にも絶叫しそうだ。

「我が双銀のきぶぁ……ああもう、糞っ!切り裂け!」
焦りか披露か動揺のためにとちってしまった呪言。その構成を無理やりに編み上げた。
刃が逆手なのは、さっきヒュドラとやり合った時から持ち替える暇もなかったから。
もはや無茶苦茶である。

同じ思いを抱えた二雄が鴇の声をあげた。

生き残る、絶対に。

ヒュドラの顎をかいくぐり、双剣がその首に牙を立てる。
気迫と気迫のぶつかり合いは一歩も劣らない。
それはまるで龍同士の闘い__龍の噛み合いのようだった。

一度離れた牙同士が、再び交差した、刹那。
ヒュドラは眼前に龍のあぎとを夢想した。
幼く未熟ではあるが、確かに一匹の龍が自分へ牙を剥くのを。

未熟な刃はヒュドラの顎を噛み千切り、ブレスを封じる。
「レイ!伏せろ!」
「…!」
まさにそのタイミングで風の刃が来襲した。
身を低くしたレイの頭上を越えて、再生した首を全て切り落とす。

「降りて!早く!」
頭の中が真っ白で、心臓が痛いほど脈打っている。
どこかでマルコの声を聞いた気がして、どうにか沼の外側へ飛び降りた。
マルコがパチンコから放ったらしい弾が、ヒュドラの顔面と腹部に命中する。染料が飛び散った。
それはすなわち、急所への目印。

「…おろれ、ほさかしひ…!」
不明瞭な言葉を発しながら、ヒュドラは爪を振りかぶった。
その龍の爪を風の爪が相殺する。
コニスティンへ向き返ったヒュドラだが、攻撃を喰らうばかりで攻撃が通らない。
まるで風の身体を持った龍が立ちふさがっているようだ。

しかしほんの一秒を待たず、ヒュドラの顎が再生する。
ふはは、とヒュドラが満面の笑みを浮かべた。その直後、芯の通った声が耳を打つ。

「だめよ。私の見せ場がまだじゃない。」

圧倒的質量で炎が具現化された。
爆発的火炎が視界を埋め尽くす。

「っ…!?」
魔術。
太古の力を引き継ぐ手習い。
幼子の真似事。
様々な表現で呼称されるそれは、確かに人の域を越えた力に端を発するものだ。

「燃え尽きて……しまうがいいわ……っ!」

今まで圧迫されていた炎の魔術は、その反動かのように標的を押し包む。
その様はまるで龍の吐息ドラゴンブレス

劫火に身を晒され、龍は一度二度身悶えする。火炎が再生し続ける体を燃やして燃やして燃やして___燃やし尽くした。

そこには、炭だけが残った。

「勝った…?」
「……うん。」
炎が消えた後も、しばらく誰も言葉を発せなかった。
実感がわかなかったのだ。
か弱い人の子である俺たちが、まさか龍を倒したなどと。

「おし!」
マルコとコニスティンがハイタッチを決める。
「勝っ…た…アヴェラルド様っ……!」
ガーランドが膝から崩れ落ちた。リィナは慌ててそれを助け起こす。

そんななか、俺はただボヘッと突っ立って、自分の手のひらを眺めていた。

固く握りしめすぎて剣の柄から指が離れない。
湧き上がり止まらないこの震えは、恐怖からくるものではなかった。

「もう心配は必要ないか?」

コニスティンを見返す。
大きく頷いた。

人の心は弱い。
自らの行為の現実に容易く壊れてしまう。
しかし、生き残る為だというベクトルに視点を変えるだけで、容易く惨たらしい現実は見えなくなってしまった。
無意識下の自己防衛。
人の心はまた、容易い。

「修羅の道へ、ようこそ。」

それが思考停止に他ならないと、あの時寂しそうにこう言って笑ったコニスティン___俺の後の師匠だ___は知っていたに違いなかった。
しかし考えの足りない俺の頭は、そんなこと夢にも浮かびやしなくて。

「格好良さげなこと言っちゃって、これだからもう。
でも、まぁ……ちょっとだけ見直したわよ。」
「命を賭けてこれだけ弱らせてくれた人達のおかげの結果だね。
ま、レイも頑張ったしね?」
相も変わらずリィナは腕組みをして片眉をあげるが、その語気は今までより心もち優しい。マルコは威張って可愛らしく胸を張ってみせる。相変わらずの上から目線だ。

こちらに笑顔を向けてくれるみんなに、こう思うだけで胸が一杯だった。

俺はもう冒険者なんだ。
そして俺には、仲間がいる。

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