曇天、虹色地平線 魔術公国の鷹 6 意地



何が起こった。

「…魔断壁!」
アッシュの叫びに重なって甲高い摩擦音が生じる。直前に炎に飲み込まれた様に見えた奴の姿は、一瞬後には元に戻っていた。炎のベールを脱ぎ捨てたように。
「そんな…魔法!!?」
ラシュームの悲鳴は戸惑いや恐れを内包している。そうなんだよ、こいつ人間のはずだろう。
まずいことに、真っ青になって硬直したイリスがアッシュの前に取り残されてしまっている。瓦礫が誰かに当たらないように調整して落としたのが裏目に出た。奴の邪魔ができない。さらに致命的なことに自分はまだ天井付近だ。深く考える前に飛び降りた。
この場にいる者以外の助けは期待できない。この銀幕はむしろ俺達が外へ出るのを防ぐ為でなく、これ以上の邪魔をさせないよう新手が来るのを防ぐためのもののようだ。天井を破ったのはこの幕が壊れないかを試すためだったが、頑丈どころか防音と来ている。外の奴らはアッシュがすでに侵入していることに気付いてすらいないかもしれない。鮮やか過ぎる手並みに舌を巻いた。

「面白いね。その筆。お嬢さん、君…ここの娘じゃないのか。」
「…!」
「できるだけ人は傷つけたくないんだ。渡してくれるね?」
「…お断りします!」
イリスはやっと逃げる事を思い付いたみたいだが不可能だった。おそらくもっと前に思い付いていても不可能だっただろう。
ラシュームがなんとか体勢を整え矢を射掛けるのが見える。アッシュはそれを避けず槍でなぎ払った。弧を描く槍の先端の銀の帯、槍圧は矢を砕くだけでなくラシュームまで届く。元々無理して撃った矢だ。乾いたものが砕ける嫌な音がラシュームの方から届くが、庇いきれず弓が壊されたのだろう。
奴は腐っても緑の民だ。おそらく大丈夫。それよりも___。アッシュはラシュームの方すら確認せず、そのままイリスの腕を締め上げ筆を奪おうとする。

ラシュームの作った時間は僅かだったが十分だった。イリスとアッシュの間に身体を捩じ込むようにして斬り込む。背にイリスを庇いアッシュに向かい合うとなると、自然と姫さんの時と同じようになった。
「同じ事が成功すると思うほど僕を知っているつもり?」
目の前から発された落ち着き払った台詞と同時に、銀の弧を描き奴に迫った双牙は横なぎに振るわれた槍に動きを封じられる。腕に伝わる突き抜けるような衝撃。それだけではなく手元で嫌な音がした。
「ちょっ!嘘だろ…!」
左手に持っていた呪文剣が奴の槍を受け止めた所から真っ二つにへし折れる。一瞬ぶれて力も抜け隙ができた。そこに打ち込んで来た新たな一撃を、空いた片手も残った片牙に添えてようやっと受け止める。
奴を押し返そうと試みるが、奴が片手で持っている槍となんとか均衡を保つ為に俺は両手を使っている。体格的にも真っ向力勝負して勝てるとは思わない。自分の庇う背後の身動きを感じる。勝算は、イリスだ。

「残念。力不足だよ。」
凶悪な存在感を放ち奴の右腕が滑るように俺の懐に潜り込んで来る。汗が滴り落ちた。見えてるのにどうすればいいか判断がつかない。両方とも手は塞がっている。奴の槍を放り出して避けることも出来ない。後ろにはイリスがいる!その一瞬の迷いは致命的だった。
「ここだね。動きがぎこちない。…崩壊波動。」
耳元で囁かれた呪言に反応して奴の右腕が発動光に包まれる。まずいと思った時にはすでに、壁すら容易く砕くそれを腹部の師匠の傷がまだ治りきっていない辺りにぶち込まれた。何の迷いもない鋭く深い一撃。
「が___は…っ!」
「きゃあぁ!」
綺麗に入った。頭の中が真っ白く染まった。壁際まで人形のように吹っ飛ばされる。背中で後方の少女を弾き飛ばしてしまったのが分かる。だが彼女を気遣う余裕もなく、身体を丸くし地に伏せざるをえない。
悲鳴すら発せずただ喘ぐ。息が…!

「この辺で引いて欲しい。戦いに手は抜かないが、僕の槍は魔物を滅する為にある。
格言にもあるよね。他人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んでしまえって。」
「うくっ…」
それはお前の欲望だろう、と突っ込むこともできない。身を起こすにも身体に力が入らない。生理的な涙が出た。苦しい。わななく胸を上下させ深く呼吸しようとするがおぼつかない。
なんとか生きてはいる。だが作戦は失敗だ。イリスが力を使えるのも知られてしまった。ラシュームも攻撃手段を失った。

勝ち目がない。思い付かない。



僕は無力だ。“特別”なんて名前だけで何も出来ない。
くずおれたレイにアッシュが近寄るのを見ていながら出来る事が浮かばない。弓の残骸を握り締める。彫り込まれたリドミの紋章がだぶって見えた。城を出た日、この弓を同じように握り締めて誓ったのだった。叔父さんの前で俯いて黙ってばかりの自分が嫌で嫌で。もう逃げない。戦うって。
「貴方を自由にしておけば安心して目的も果たせませんね。」
レイが身を起こそうともがくのを見下ろし騎士は暗く微笑む。応答を求めない台詞は確実に、とどめをさすのを意味していた。せめて彼が逃げてくれたらいいのだが…駄目だ。ダメージから回復しきっていない。見るからに力の入っていない腕は、それでも落とした剣を掴もうと無駄な挑戦を繰り返す。

その剣を掴んで、もっと小柄な影が立ち上がった。アッシュは戸惑いたしなめる。
「姫様。ここは危険ですので下がっておられた方がよろしいかと。」
「貴方がそれを言うのですか!」
彼女にレイの剣は随分重そうだ。両手で持ってもなお力に余る。振るのも苦しいだろう。無理して持ち上げているのは瞭然だ。
「失礼ですが、ここでは分が悪いのでは?」
銀の髪やその名が示すように彼女は魔術の申し子。しかしどんなに強大な力を持っていようが、この結界の中では何も出来ない。ごく近くで彼女達を守ってきた彼はそれをよく知っているはずだし、その台詞は彼女には皮肉以外のなにものでもなかった。

姫はうなだれ道を空ける、そう思った。だが彼女は強い意思の光をとどめた目で、先日まで自分達を守護してきた騎士を睨み付けたのだ。
「戦う前から諦めて…他の者が危なくとも見ないふりをしろというのですか。そんなことはこの私、ウィンディーネが許しません。貴方は我が国の者だった。ならばこれは王族の義務です。」
「姫様…。」
「やめさせてみせます、っ…!」
剣に振り回された一撃はアッシュを怯ませる事すらできない。だがアッシュは心をうたれたような表情で彼女を見つめる。
「_____違う?…違う。そうだ。」
彼の誰かの言葉を繰り返しているかのようなニュアンスで囁く声は突然迷いと決別した。
「道を空けて貰います。」
さほど力を入れたとは見えない腕に押し退けられた姫が落とした剣が床に落下し硬質の音がする。彼女の表情が絶望に歪んだ。唐突に僕は気がついた。
おそらく僕は彼女と全く同じ表情をしているのだろう。

彼女は無力だ。
僕は無力だ。
彼女が戦うのは王族の責任から。
じゃあ僕は?

昨日からずっと疑問だった。ひょっとしたらあの時、リドミを旅立った時から引っ掛かっていたのかもしれない。
どうして僕は戦おうとしているんだろう。誰よりも敬っていた叔父と、執着しない王位を取り合い。初めて訪れた故郷でもなんでもない国のために、つい先日出合ったばかりのいきずりの人達と共に。

答えは簡単。考えるまでもない。このままじゃ嫌だから。

緑の民だからでも王族だからでもない。善神イゴス様に顔向けできないからでもない。人間だった時も人外である時も変わらなかったこと。
僕は僕だから戦う。僕の望みの為に。
“人外である自分”を否定し恐れてきた。でもそんなことは小さな事だった。自分の静かで熱い脈動を感じる。胸の奥の熱は四肢の先まで巡り広がり中和された。
まだできるはずだ。何かが。僕はみどりのたみなんだから。
足掻くよ、今。緑の民の名にかけて_____!!



レイさんにはね飛ばされ床を滑った身体は瓦礫にぶつかってやっと止まった。息が詰まる。それでも反射的に身体を丸くしていたからか無事のようだ。
擦り傷もほとんど無いのはこの服のおかげでもある。酷く吹っ飛ばされたのに黒いフードのおかげで頭も打たなかった。さすが宮廷魔術師服には補強魔術が編み込んであるようだ。
ふらつきながらも立ち上がる。大丈夫。すぐにサポートできる。そこでやっと自分の命綱とも言えるものを失っているのに気がついた。

筆がない…!?

衝撃の拍子に手放してしまったのだろうか。あれがないと魔法が使えない。つまり私は戦う手段を失ってしまった…!
どこかに転がっているはずだ。焦れば焦るほど見当たらない。早く拾わないと…!
顔を上げればアッシュさんは既にレイさんへ迫っている。あわやという時に王女様が立ちふさがった。それでも退けられてしまう。
この状況を一転させられるものは魔法以外ありえない。
なのに、ない。

「…駄目!止めて!」
叫ぶしかなかった。同じ人間なのだから自分の言葉が届くと信じて。
「外の誰を斬っても、あの方が微笑まれる事の方が大切なんだ。」
私を見てはっきりと言ったアッシュさんは今までの表情の作り方を一変させる。笑ってない。怖い程真摯に言った。目の前が真っ暗になった。
コニスティンさんの時と明白に違うのは、どうしようもなかったのではなく私が筆を手放してさえいなければ何とかなったかもしれないこと。自分の中に戦意のようなものがあるなんて知らなかった。でも気付いた時にはもう。

「させないよ!!」
暗い視界が一瞬にして緑に染まった。煉瓦を浸食してゆく野草は毛の長い緑の絨毯を作る。緑の民の少年を中心として生じた生き生きと輝くような草花のエリアはこの空間の闇を打ち払うのに十分だった。緑の中を泳ぐように動く、しなやかで美しい蔓はアッシュさんの腕を絡めとる。
「なっ…!?なんだこれは…君は人間ではないのか?」
「好きに解釈して!!」
巻き付かれた右腕を身体に寄せて引っ張り、体勢を整えたアッシュさんは怪訝に呟いた。ラシュームさんの前に伸ばされた手はその蔓を引き戻そうと力比べをする。
これでアッシュさんの足止めができる。話し合いもできるかもしれない。光明が見えかけた。

鎧の銀の残像を残し、アッシュさんはおもむろに右手を力一杯振り切る。
ぐん!
「え…えぇえ!!?」
一点に急激にかけられた力にバランスを崩したラシュームさんは頭から前にずっこける。絨毯が余裕をもって彼を受け止めるが、あっと思った時には既に蔦のコントロールを手放してしまっていた。力を失ったそれをむしり捨てたアッシュさんは穏やかに苦笑する。
「私を止めるには、まだまだ足りないよ。」

それはそうだ。彼はずっとモンスターと戦ってきたのだ。多少の魔法ではなんら動じず対応してしまう。
___“退魔騎士”。

「そうか?十分だったぜ。」
注意を奪うのが目的としか思えない声はアッシュさんを真顔にさせた。


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