曇天、虹色地平線 魔術公国の鷹 7 闇駆ける鷹



耳元に滑り込んできた声は随分近くで、内心思わず鳥肌が立った。これだけのものを食らっておいて動けるとは思わなかった。苦しみも殺意も感じられないその声は淡々と続ける。
「その血の昇った頭、冷やしてやる。」

白刃の輝きに対応しようとした槍は一瞬、相手の剣と左手で勢いを殺され、それがフェイクだと気がついた時には足を引っ掛けられ押し倒されていた。攻撃に出る時の体重移動の隙を突かれたのだ。
はずみで兜が弾け飛び外れ転がるのが分かる。視界が回るのもどこか現実味がない。
「実はあんた、人間相手じゃ戦い慣れてないんじゃないのか?」
今の今まで自分の足元に転がっていた男に馬乗りにされる。押しかえそうとしたが体重をしっかりとかけられてしまっていて均衡までが関の山だ。鎧の繋ぎ目に引っ掛けられた自分の槍が手枷のような役割を果たし、身動きも自由にとれない。
何より私の首にぴったりと這わされた剣は微塵も震えていなかった。

“龍殺し”も自分と同じく戦いのエキスパート。闊歩する魔物モンスターを退治し、人々の平安を守る。私も彼も多くの存在を斬ってきた。
確かに対人の経験の差もあった。しかし最も戸惑わせたのは、彼はなんの刃の鈍りもなく殺意を持たない。
それを超越した所にいるのか、そもそも超越なんて出切るものなのだろうか。
「さすがは“龍殺し”の一員だ。」
この賛美は本音だった。レイといっただろうか、彼は答えない。変わりに姫様が驚きの声をあげた。知らないで雇っていたのですか。

兜が守っていた首部分がさらけ出されている。スースーする。しかし彼は私のむき出しになった灰色の髪をじっと眺め、何かに堪えるように呟いた。
「…もうやめないか?」
「何故。」
「あんた、俺の師匠と同じ感じがするんだ。」
意味が掴めない。ただ凄く悲しそうな顔を彼がした事だけは分かった。

止める? つまり諦めろと?

脳裏に浮かんだサラフィー様が何事かを叫ぶより早く、いつものように心中から言葉が湧いて来る。

(彼女を諦めるのか? お前はあの方をどう思っている。)
…大切に思っている。
自然に答えが浮かんだ。あの方は我が主君。私は___。

(お前は彼女を愛している。)
___あの方を愛して、いる。
(彼女もお前を愛している。)
…愛して。
(彼女の望みを邪魔する者は潰せ。)
サラフィー様のお望み通り___
(潰せ。)
___潰す。



仰向けに組み伏せた騎士は静かになった。イリスの安堵の溜め息がむず痒い。別に話で解決したいとお前が言ったから斬らなかったんじゃない。俺がやりたくなかっただけだ。
あの時の記憶がちらついて、妙に刃のキレが悪い。

(黒雲に乗るように奴等は訪れた。水の力を持つモンスターが主だったから、本当に連れて来たのかもしれない。暗い空、降りしきる雨。断続的なくぐもった叫び。視界はほとんど閉ざされたようなもので、濡れて張り付いた服が気色悪い。戦場の真っ直中にいながら、雨のベールのせいで孤立して戦っているような気すらした。うちの主力の爆裂火炎娘、リィナは炎の術師ゆえほとんど戦力にならない。城までの防衛線を維持できず、奴等がなだれ込む、そう思った。そこに現れたアッシュ。城の中の方が戦いやすいだろう、戻れ。見殺しだとか…そんなのはいいから。だが俺達のその台詞に彼は言ったのだ。
「それは出来ない。あの方の為に命をかけて戦う事が私の使命なんだ。」)

「それは出来ない。あの方の為に命をかけて戦う事が私の使命なんだ。」
記憶と全く同じ言葉を吐いた騎士に、一瞬思考が停止した。
こんなこと考えたくなかった。この違和感は俺の願望なのかもしれない、なんて。こいつの今を否定しているだけだなんて。

「衝撃波動」
やつの上へ向けられ固定されている筈の手の平が呪言の発動光に彩られる。
初めは槍が跳ね上がったように見えた。遅れて襲いかかって来るのは内臓を持ち上げるような衝撃。水と異なり風圧のように掴み応えを持たない精神派。
「っ…龍牙斬!」
強化呪言の白刃の輝きが増幅する。斬属性を極められた刃は円月を思わせる軌跡を描いて衝撃の波を切り裂いた。

だが眼前にアッシュはいない。忽然と視界から消えていた。
「…しまった!」
上だ。
気がついた時にはもう遅い。この致命的さは一度捕まえた鳥をまた放ってしまったのに似ている。同じ鳥をもう一度捕まえるのは不可能に近い。
闇を駆ける鷹。誰を狙うつもりだ。



やっと見つけた。足元ばかり探していたから見つからなかったんだ。
筆はレイさんの作った瓦礫地帯の外れ、思いのほか離れた所に落ちている。方角的にはレイさん達に背を向ける事になるけど大丈夫だろう。道は塞がりかけていて進むのも一苦労だ。こんなに無茶苦茶してレイさん後で大丈夫なんだろうか。

不意に頭上に風切り音がして、思わず私は背後を見上げた。
ここは一般的な通路よりは多少幅広いがやはり細長い。代わりに天井が高いのがここらの建築の特徴らしく、それと同様に天井が高かった。窓は私達の目の高さにあるのだから、当然そこは闇が籠っているとでも言ってよかった。

目に入ったのは、そこを泳ぐように跳ぶ影。
おそらく煉瓦の継ぎ目に槍を引っ掛けて高跳びの感覚で飛び上がったのだ。だが壁はそんなにデコボコしている訳ではない。出っ張りはじっと見ないと分からないくらい僅かで、そもそもほとんどない。恐ろしい身体能力からくる繊細な体重移動、さらにこの城の造形を知り尽くした経験がなせる技だろう。
“退魔騎士”の青年は、まるで強靱な翼で羽ばたく鷹のように闇を飛び獲物に狙いをつけていた。

狙われているのは、私だ…!
反撃する術はない。避けるにも難しいことに気付いた。つまりは何の障害物もない移動ルートが存在するのだ。彼以上のスピードで移動するのは無理だろう。
ともなれば、彼が飛び下りて来る僅かなタイミングを計って抵抗するいがい何が出来るだろう。
鷹は右手を掲げ、舞い降りようと向きを変えた。つまりは鋭い爪を光らせた。

来る。

その数瞬前、鷹の目が他のものを捉えて私から逸れた。緑色の素早く繰り出される長いもの。
「だーかーら、僕を___忘れてるの!!?」
鞭ではなく、たおやかな精霊がその両手を広げ迫るように不規則でフットワークの軽い魔法はアッシュさんの足が地に着く前に届く。だがその蔓は相手に絡み付く前に、アッシュさん本人の右手に掴みとられてしまう。

「ううん、忘れてない。注意を払う程じゃないって事だよ。」
くぐもった音を立て、蔓は彼の手の中で霧散する。
その時、天啓としか思えないタイミングで私は思い付いた。私を潰すよりラシュームさんの攻撃を無力化することを優先したのを見て。自覚した時には走り出していた。
私の余計な希望が皆をためらわせ、事態を悪い方向へ向けさせてる。
止めさせるんだ。誰も傷つかないうちに。それでも諦め切れない自分を自覚しながらも唇をかみ締めた。



「イリ…!?…おう!」
真直ぐこっちへ走ってきたイリスを背後に庇おうとして、正面に走り込んで来た彼女にたたらをふんだ。告げられた短い言葉にこちらが頷くのも見ないうちに走り去る。
なんだってんだ。
全く合点がいかないが、取りあえず指示通りに呪言を唱え始める。呪言の力に共鳴して骨に響く震えが肋骨に走った。そろそろ身体がもたない。もう何度も呪言を使う事はできない。ここで俺が倒れれば誰がこいつらの壁になるんだ。

それでも、お前を信じる。

「アッシュ!いくぞ!
…巌貫龍囓」
発動直後から腹部を走る鋭い痛み。思ったより傷に食らった一発は持久力を削っていた。

挫けるな。闘志を失うな。斬るんだ。根性見せろ。
一度発動した呪言を暴走させるわけにはいかない。何度だってあったじゃないか、こんなことは。思い出す記憶、そのいつもにあいつらがいた。コニスティン、リィナ、マルコ___
ラシューム………イリス。

アッシュが声に反応してこちらを見た。見失ったイリスを探すより俺の相手をする方を選んでくれたらしい。悪いが負けない。俺は俺の立ち位置でしか戦えないから。
奴の近くまで飛び込み、着地の一瞬で力を溜める。あとは切り上げるだけだ。まださっきの跳躍の呪言が残っているのだろう、奴は右斜め上に跳んだ。ここが勝負___。



ズドン!

自分を掠めた赤い牙が、そのまま天井に打ち込まれる。風穴から眩しい光が降り注ぐが、今自分は姿を消していないのだから何の意味もない。今度はさっきとは加減が違ったのか、小さな瓦礫と粉塵が降り注いだ。単なる失敗か。それより重要なのは目録を手に入れる事だ。
粉が庇い切れず目に入ってしまい涙ぐむ。これじゃあ“灰かぶり姫”だ。その言葉から連想したおとぎ話のラストでは、王子様は王女様と幸せに暮らすのだっけ。
最近はぼうっとしていけない。そんなことを考えながらも左手は目録に伸ばされてはいたし、身体が勝手に動いてくれている部分では問題ないのだが。

本に手が触れた。触るのは初めてだった。
自分が守ってきた王家とこの国の象徴としての目録。しかし一度自分に正直になってみると、サラフィー様以外に大切なものなど有る筈もない。
目録このくにを手に入れ、もう一度私はあの方を傍らで守る。


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