曇天、虹色地平線 魔術公国の鷹 9 灰



(その女の首をへし折れ。)
首を。
わかった。頷いた。もう自分の行動がよくわからない。自分の身の内から来る声に従い行動するのみ。乳白色の海に潜っているような心地すらした。“声”だけがはっきり聞こえて、周りの声もくぐもってしか聞こえない。
(殺すんだ。)
殺す。…誰を?
どこかで誰かの泣き声が聞こえた。
「誰か…母様を、母様を…。」
サラフィー様を、救って。
あの方が危ないなら、私は戦わなくてはならない。あの方___。

…私は何をしている!?

冷水を被ったように頭が冷静さを取り戻してゆく。考えろ。分かるだろ。自分の腕が誰の首にかけられているのか。
(殺せ。)
違う。

声は厳しく私に命ずる。おかしい。何かがおかしい。自分の心中の吐露だと思っていたこの声は確実に“違う”。
「黙れ____黙れ!」
叫んだ。周囲から人のざわめきがする。少なくともここにいるのはサラフィー様と自分だけではない。
どこだここ。なんだこれ。
思考は空回りし、材料となる記憶の僅かな断片しか思い出せなかった。
(殺せ、殺せ、殺せ___)

この声に抗う事は自分に抗う事になるのかは分からない。ただ確かな事は一つ。私の敵は___
「…アッシュ。」
随分側であの方の声が聞こえた。ずっとこの方を守ってきた、その距離感そのままで。
___サラフィー様の敵。

(まったく…使えない。)
ぴくりと自分の右手が別の生き物のように動いた。自分が左手に握り締めているのは抜き身の剣。
するべき事は分かった。



アッシュさんの右手の指に力が籠るのが分かる。壁を打ち砕いたあんな腕なら、呪言を使おうと使わなかろうとひとたまりもない。
誰かを操って大切な人を殺させるなんて考えられない。あんまりだ。血も涙も心もなく平然と人を踏みにじる…それが…魔物モンスター。“また会おう”言い残されたその言葉が酷く恐ろしい。
だが彼の注意は今のところこちらへ向けられていないようだった。レイさんが静かに間合いを詰めようとする。気付かれたら止める間もなくお終いだろう。空気が張り詰めた。

アッシュさんの右手が動くより早く、彼の左手が行動を起こした。
不意を突かれた…!?
レイさんが飛び出す。だが届かない。無情にもアッシュさんの剣は女王様のいる右側に振り下ろされる。その斬撃は、アッシュさん自身の右腕を切り飛ばした。

「…なに…!?」
「分かったぞ…何もかも。」
レイさんの驚きの声に答えたわけではなく、アッシュさんはただただ一人ごちる。腕を押さえて蹲り、それでも一度取り落とした剣を拾い女王様の戒めを砕く。身体を丸めるようにし頽れた。
「みっともない所をお見せして申し訳御座いませ…。」
「貴方は…。」
傷ついた自分の騎士を抱き留めて、震える声で女王は囁く。それを遮るのはけたたましい…哄笑。

地に落ちたままもう動くはずのない右腕が浮上った。そこにはしっかりと目録が握られている。その腕の甲に真っ赤な裂け目のような口が開いているのだ。
「お笑い、お笑いだ…!」
聞いたことのある中性的な声。



床に落ちた腕からは血すら流れ出ていなかった。そう、アッシュの腕の傷口からも。
お出ましかよ。
「貴方は…!」
「んん?…イリスちゃん。久し振りだねぇ?」
「黙れ!」「黙ってください!」
イリスの叫びと重なった。怯えているのか少女の声はやや震えている。…大丈夫だ。俺がやる。

モンスターと会話する気なんて全くない。俺の闘志に反応するように剣は銀の光を放つ。だが右腕は嘲るように続ける。
「やあ、レイか!まだ一緒にいるんだね。
君の相手は“退魔騎士”くんだよ。」
殺意以外に呼びようのない感情に翻弄されまいと大きく息をする。師匠を冒涜し、アッシュを弄び、あまつさえ___。
「またお前か!このワンパターン野郎!
奴の洗脳は解けた。俺らの敵はお前だけだ!」
「それはどうかなぁ?」
ゆらゆらと揺れて目録を見せびらかす右腕に、まさに俺がが踏み出そうとした瞬間。

「うわ…!!?こんなっ…二人とも離れて!!」
アッシュ達についていたラシュームだった。取り乱した様子で叫ぶが、その二人とは俺とイリスではなく姫さんと女王の方らしい。
「どうした!?ラシュー!」
「この人…このままじゃモンスターになるよ!!?」
そんなこと起きるはずがない。初めから人外の血を持っていたなら可能性はあるが、それでもラシュームのように元からそうだったものが目に見えるようになるだけだし、アッシュは間違なく人間だ。
アッシュは残された左手で胸元をかきむしる。右腕も酷く痛むだろうにそっちのけだ。脂汗をかいた顔は蒼白で、ただならぬことが起きているのは確かだった。
「……何が。」

俺の呟きに答えたのはラシュームではなかった。
「ちょっと手を加えたからね。足りないパーツもあるし。それでも使えなかった訳だけど。」
「貴様…何をした。」
嫌な汗が流れる。
まさか、こいつアッシュを生かしたまま改造したっていうのか。睨み付けた俺に動じず、右腕は楽しそうに続ける。

「沢山のパーツを組み込んたげたよ。人間の体は脆弱だからねぇ。
“核”の右腕を切り落とすなんて馬鹿な事をしなきゃ、もう少し持ったのに。」
けして混ざり合わない人と魔の共存する肉体から、そのバランスをを保っていた“核”を除去すれば身体は均衡を失う。殆ど人外のものである身体は完全に魔と化してしまうだろう。そうなった身体に人間の精神など、もうとどめられるはずがない。
「人格さえ消えて暴れ回るんだ。今の内に息の根を止めないと手が付けられないよ。君達に出来るとは思わないけどねぇ。」

この町を愛するアッシュ本人にこの町を壊させるのか。噛み付きそうなイリスの肩は後ろからでも目に見えて震えている。
「どうしてこんな酷いことを!」
「そりゃあ…恨みがあるからだよ。」
言い放ったモンスターへ、黙ったイリスに変わって告げる。絶対にお前は俺が倒してやる。
「真っ当な理由じゃないか!」
言い終わるか終わらないかぐらいに一文字に斬りかかる。奴は機敏に飛翔し、残念ながら剣は宙をないだ。

「国を壊すなんて簡単だったね。女王、“退魔騎士”、目録…この国の象徴が今やバラバラだ!
僕達のモノになるのも遠くないよ!」
呪言を唱え追いかけなくてはならない。たとえ限界を超えていようが、奴みたいなのを野放しにはできない。だが身体は俺の思いだけでは動いてくれなかった。
「まだだよ…!!」
そこにラシュームの蔓が絡み付く。しっかりと目録に届いた。少しの間ではあるが力が均衡したように見えた。しかし非力さゆえすぐに振り払われてしまう。奴はそのまま窓を破り外へ飛び去った。
「…逃げられた、なんて。」
奴の姿が見えなくなっても、俺は剣をなかなかしまうことができなかった。



息が出来ない。押し潰されてしまいそうだ。
悲鳴をあげないように食いしばった歯と歯の間から荒い息が漏れる。
痛みが波であることをやめ容赦なく身体を蝕むこの時も、何故か思考だけはクリーンだった。周囲がぼやけて音が聞こえないのは今までと同じなのに。

ぽつり、と頬を水滴が流れる。涙だ。自分がサラフィー様に抱えられているのを自覚した。この方は私の為に泣いてくださるのか。
こうして最期をサラフィー様の側で迎えるのが夢だった。負傷して騎士を外されても、この方の側に戻りたかった。その心が魔に取り入られたのだ。
「…全て、私の責任です。」
あなたにはこんな姿を見られたくなかった。

サラフィー様が何か言葉を口にされるが聞こえない。自分の中で何かが壊れる音がする。漠然と卵の殻が割れるのを夢想した。自分はどんどん限り無く魔へ近付いていく。静かに看取られることも出来ない。
世界が色を変え始めた。人であった時には見えていた物が見えなく、見えなかった物が見えて来る。それは自分の死と同時に新しい敵の誕生を意味する。
くぐもった視界の中で、ただ一つ明るく輝くものを見つけた。自然に浮かぶ恐れにも似た警戒。これは破壊の赤、滅びの赤。この目が魔に属するものならば、これは___。



死んじゃう。
どうしようもない。彼を助ける方法が見つからない。ここまでなってしまったなら、どんな魔法でも何も出来ない。
どんな魔法が使えようと、今死にゆく人に何も出来なければ何にもならない。

そのとき、焦点を失っていたアッシュさんの一種異様な光を湛えたが瞳がこちらへ向く。女王様にまかせていた身体をいきなり前のめりにさせ、私の方へ左手を伸ばした。バランスを崩し倒れようとした彼を慌てて支える。
だが彼は支えの私の右の握り拳をそっと開かせた。そこにあったのは王女様から手渡されたまま握っていた宝石。

その手の平を包むように握り、彼はまるで姫にするように身をかがめた。宝石に触れた時に、僅かしか血の入っていないラシュームさんですらああなったんだ。魔族と化した身体など滅されてしまう。
止める間もなく、恭しく手に口付けされた。正確には赤く輝く宝石へ。
はっきりと私を見て、彼は言った。

「…ありがとう。」
今までの余裕ぶった笑いとは全くの別物の、人の良さそうな笑顔の残像を残し、お日様の光を浴びた吸血鬼のようにあまりにもあっさりと彼は自分の幕引きをした。


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