曇天、虹色地平線 緑の公国 10 魔法



その手から空の瓶が落ちる。ぱりん、と響いた堅い音。
それを皮切りにして魔力の爆発が起こった。
「______!!」
“緑の守”の男は後ろから打ち抜かれたように膝が付く。ぱっくりと開かれた口から声にならない叫びが迸った。
「…!!?」
顔をかきむしる指の隙間から見開いた瞳が覗く。
それは外の世界を覗くなり、怯えたように顔を覆った。

フロールは駆け寄ろうとしたが足が前に進まない。薄まれども確かに流れる緑の民の血が教えるのだ。
この場にいる王家の全員が、その変化を目で見て知った。
魔と人の境を取り払う。
それは本当にこういうことなのか?
これではむしろ____。

「いやあぁああぁあ!」

彼の体内で莫大な魔力が膨れ上がっていく。
これでは人の心など、保てる筈が無い。

「失敗、か?…こんな話聞いていない!」
参考にした王家の文献には、王族に加わる資格の無い者は死ぬとしか記されていなかった。
人ではないのは確かだ。しかし心の無い魔などと魔物として認められない。
力の許すまま暴れ回る存在など、それこそ化け物に他ならないではないか。

「父さん!」
父に近寄ろうとしたキーヴァを無理矢理メーコックは抱き止どめた。もう手遅れだ。このままでは我が子をも手に掛ける。
ゆらり、とブラスヴァ___いや、すでにその抜け殻と言っていいだろう___は立ち上がった。左右に体を揺らしながらこちらへ近付いて来る。その光景はマリオネットのようだが、その滑稽さが恐怖を掻き立てる。

「逃げなさい!」
緑の娘は先程まで恋人だった“それ”の前に立ちふさがった。
「…フロール。」
「この中に私以外に彼と渡り合える術者がいるの?
兄様は子供達を連れて逃げてください。このまま外に出したりしたら民が…!」
「しかし、彼は………。」
身体が機能を停止するまで戦い続ける。それとお前が戦うなど…つまり。
メーコックは言い淀み結局口を閉ざした。

「リドミ王家の者には、リドミの民を守る義務があります。
だから私は逃げない____彼もそれを望むでしょう。」
緑の娘ははっきりと言った。
リドミの王族として、一度たりともその恋人に背を向けない。
その表情には苦悶の跡が痛々しく残されていたが。

オ____オオォオオ!!!

絶叫、怒涛。
突き上げるような地揺れに皆が足を掬われる。

その原因を見るなりメーコックは思わず叫んだ。
「何!?加護を持つこの空間が崩されるなど…!?」
王宮の心臓部である神殿は堅く厚く造られており、掘削の術であろうと簡単には崩壊しない。
それが天井から半ば崩れ、入り口を塞いでいた。大きな瓦礫はまるで登れる気がせず上からの脱出は望み薄だ。子供を連れてなど尚更である。
窓も無い。
いわば完全な密室。
震える子供を抱えたまま、しばしメーコックは呆然とした。そんな彼が自分に猛然と迫る影に気がつけたのはひとえに緑の民の瞳のお陰だった。

「…!」
左に提げていた長剣を左手で無理に引き抜き弾く。右腕に抱えたままの子供が悲鳴をあげた。
“それ”は、足も腕も役割を分ける事を止め、獣ですら不可能な速さで迫って来る。人間として有り得ない動き。
さらにあろうことか片手で長剣を握り捩じ曲げ、残りの片手を振りあげた。
窪んだ眼窩に表情はない。
当然だ。魂が失われているのだから。
その意味を体感し、マクスマレーンは自分の身体も震えている事に気付いた。

「待ちなさい!」
割り込んだ妹は、魔法を行使すべく相手を見据える。その瞳が見開かれた。
偶然と言うには残酷に、それは抱擁を求めるように両手を広げたのだ。
敗北は許されない。
そう知りながら、彼女の動きがぎこちなくなる。
ほんの一瞬の躊躇。
その僅かな時間は、“それ”の指が彼女に届くのに十分だった。
その柔肌に、やわらかな果実がされるがごとく指が食い込んでいく。
「…!」

腕の中で子供が震えている。
捻り潰されそうになった身体から自分の血に濡れた指を振り払い、娘は叫ぶ。
「絶対に貴方に罪を犯させない。
それが私から貴方への償いだわ。」
緑のフィールドが神殿を浸食し始めた。



ラシューは黙って事の顛末を聞いていた。
もう素の自分以外演じる事のない表情は、その詳細を初めて知ったと物語る。

リドミで行われた惨劇も原理はアッシュと同じだ。
逆にその“儀式”の成功例が有ったのかも、レイにとっては疑わしかった。

「兄上は呪われた薬を姉上の恋人に飲ませ、姉上はその恋人と差し違えて死んだ。
生き残った我々はこれについて口を噤むを選択した。その薬は脈々と受け継がれて来た負の遺産。リドミの極秘なのだ。
共にリドミ王家には憎悪、嫉妬、互いに血を流し合う宿命も受け継がれて来た。」

ラシューの目が数度しか見た事がないあの真剣さを帯びる。叔父と甥の視線が重なった。
なるほど、似ている。
この二人には紛れもなく同じ血が流れているのだ。

「叔父さん、質問がある。
じゃあ、その薬の材料は…何?」

ラシューは王の持つ小瓶を指した。
俺にとっては聞くまでもない疑問だ。しかし王は黙ってしまった。
今さら何を悩む?
「俺には分かる。」
口を挟んだ俺に、キーヴァの視線すらが集まる。

これはひとつのチャンスだ。



「それだけじゃあないぞ。」
レイは、にやりと笑った。好戦的な笑みだ。
叔父さんにも増す凶悪な威圧で続ける。どちらが優勢なのかすら見失ってしまいそうだ。
その勝負強さは驚嘆に値するなぁ。
しかしそのレイの発した言葉は、ラシューム本人にとっても大きな衝撃だった。

「あんたのその魔法、真っ当な方法で手に入れたんじゃないだろう?」

ざっ、と叔父さんから血の気が引く。
肯とも否とも言わせずレイは畳み掛けた。
「あんたはモンスターと取引して魔法を手に入れた。
薬はその筋から入手したもんだ。」

叔父さんが王となる正当性を示す魔法が偽物。
叔父さんが、こんなにも正当性にこだわるのはだからなのか。

叔父さんは苦笑する。
「それが何なのだ。
理想を語るには力がいる。力無き者は屍を野に晒すのみ。」
その力が“魔法”だというのだ。

事実上の肯定。
叔父さんも今までの僕と同じ。魔と人の違いなんかに捕らわれている。
僕と同じ“呪い”に絡めとられている。

「キーヴァ。こんな私を見限るかね?」
「いいえ、マクスマレーン様。御意思に従いましょう。」
叔父さんに答えるキーヴァを見るには首を廻らせる必要があった。優美に一礼したキーヴァをレイが遮る。

「麗しい主従愛だがな。
王さん、こいつは謀反を企んでるんだぜ。
いつまでこんなのを侍らせとくつもりだ?」
謀反?
口から出任せなら、とんでもない話である。
しかしレイは立派に真剣だ。

「私にその話を信じる義務はないな。
それに私がやっている事に比べて、如何ほどの罪だろうか。」
余裕の笑みで叔父さんは答えた。その笑みが本物なのかは僕には分からない。

「龍牙、お前はあらかた正しい。
しかし私が何故娘をさらったと思うのかね?」
「…………いや。」
「この薬は、あの娘が持っていた。本人は気がついていなかった様だが。」

そう言って叔父さんは部屋の一角を示す。言われるまで捧げものか何かだろうと気にしていなかったが、丁度イゴス様の像の前辺りに、膨らんだずだ袋が転がしてあった。
…………イリスちゃん?
あれか、とレイが声に出さず呟くのが見えた。隠しきれない焦りが揺れる瞳に覗く。
無事なのかな。
でも叔父さんは彼女に危害を加えるなんてしないだろう………こんなことになっても根本で彼を信頼している自分がいる。

こんなものをいつイリスちゃんが手に入れたのか?
イリスちゃんがブール王国でモンスターに捕らわれた時としか考えられない。
確かにその薬が王国で造られたとは限らない。

しかし心当たりが有った。
例えば____あれきり消えた北門部隊。
レイも同じ事に思い当たった様だった。

「よくもまあ立派に魂を売り渡したもんだ…!」
「私に言うのはお門違いだ。私はただ方法を提供しただけにすぎん。」
それを聞いたレイは長い溜め息をつく。心底呆れた表情だった。

「んで、“沈黙の山脈の三姉妹”は何が御好きなんだ?」
“魔法の代償は何だ。”
レイの問いに叔父さんは間髪入れず答えた。
「黄金だ。」
“金で魔法を買った。”

衝撃的な返答に頭が真っ白になる。
ぴんときた。
リドミの税がそんなことに使われていたなんて!

「世界は乱れている。
しかし幸運な事に、未だ黄金の権威は変わらず存在している。」
叔父さんの中に“あの気配かく”は感じられない。ならばアッシュやブラスヴァとは別の方法なのだろう。
今も継続的に、魔法なのかテクニックなのかの供給を受けている可能性がある。
それが三倍に増えたままの税の実態だ。

「…そんなこともう止めにしよう。叔父さんはそれが必要だとまだ思ってるの?」
「ああ。」

自分の胸を占めたのは怒りであり悲しみであった。
叔父が自分に、そうと知りながら禍々しい薬を飲まそうとしたからではない。どんなに言葉を尽くしても分かってくれないからでもない。
彼は自分を見てくれなかった。

無理なのだろうか。もう。
____そんなことない。

旅をして出会って来た人達の中に、そうやって諦めた人がいただろうか。
「叔父さん!!」

一人たりともいなかった!!

「必ず僕が止めさせてみせるから。覚悟して。」
「やっといい目になったな。同じリドミ王家の者として殺すに値する目___。
しかしその状態のお前に何ができる?そろそろ終わりにしよう。」

僕と自分は“違う”からと戦いを選んでいながら“同じ”王族だから戦うのだと言う。矛盾している。
確かに“蔓”ではどうしようも無いだろう。
しかし…溢れいづる泉の、零れた水滴ばかりが魔法なのではない。
自分の中心へと神経を研ぎ澄ませる。それはまさに泉に顔をつけ、泉底を覗く行為だった。

「…!?……?」
叔父さんが戸惑い目を見開いた。握ったものの感触が変わっていくのを感じるのだ。
僕は人間じゃない。それが叔父さんを引き戻すのに役立つのなら、こんなに人外であるのを感謝した事はない。
肌が硬質化していく。若々しく頑丈な木のごとく。
それと共に、今まで何の抵抗にもならなかった非力な腕の力も劇的に変化した。

「えいっ!!」
小さな身体から大きな指が容易く引き剥がされていく。
「く……潰れろ。」
何かが起きているとだけ知覚したマクスマレーンは慌てて手に力を込める。

もう遅い。
古木に成木が握りつぶせるだろうか。
“緑の血”対“緑の血”なら別だったかもしれない。“緑の民”の直系者がまやかしの魔法などに遅れをとる理由は無かった。

がきっ!

痛めた腕を押さえてマクスマレーンは飛び退き下がる。潰すには堅すぎた緑の民の青年は、すっくとその場に立った。たなびく髪は上から下まで見事な緑色に輝いている。
なんと鮮やかな緑だろう。
長い髪は広がりそのまま硬化する。それはまるで豊かで大きな翼だ。

彼はもはや“本物の”緑の民だった。

「どうして驚いてんの!!?
母さんも同じ事が出来たんじゃないのかな。」
これが“神とも見紛う存在”。
今や形勢が逆転した。

「……っ!」
キーヴァが動く。
標的は武器を手にしていないレイだ。


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