曇天、虹色地平線 緑の公国 13 女神と古龍



私の中には衝動があった。
それも、動き出せばすぐに“私”の範疇を大きくはみだしてしまう程に強いもの。
それに突き上げられるようにして行使していた魔法も、いつの間にやら自分の腕に収まっている。

少女イリスの知らない彼女イリスの記憶。それは密やかに囁き始める。
虹の女神ここに降臨せり。
虹色の掛け橋ここに結ばれり。



暗い部屋に蝋燭の明かりが揺らめく。
「それでは“目録”を開き、娘に持たせてくだされ。」
ブール王宮の一つの塔の中で異様な儀式が行われていた。

魔法陣の中心にいるのはブール王国二十代目国王、ロディ・ホルツブルク。
奇妙なことに彼は少女を抱えていた。少女は意識が無いらしく、ぐったりと彼に体をもたげている。

しかし声の主はロディでは無い。
彼の参謀、コラトだ。

その翁はどこからどう見ても人間だったが、夕暮れの湖面を思わす瞳と絶さすことのない穏やかな微笑みは、何故だか本能的な恐怖を感じさせる。
「筆を持たせ、娘の名を書き加えさせるのです。」
ロディは黙って従った。

太古の昔からこの世の終わりまでに誕生する魔法の才ある者を記した“目録リスト”。
その内容が書き変えられるなど本来なら有り得ない。

しかしコラトは、これが正当な時紡ぎになる為の儀式の一環であるのを知っていた。
必要なのは“彼女が”“その筆で”“自らの名を記す”事である。
そうする事によって少女は“あちら側”の仲間入りをする権利を得る。
床の魔法陣は勿論、目録リスト配置セットしその力を引き出す為のものだ。公国では成しえる事が出来る者が殆どいなかったその作業も、コラトにとっては児戯にも等しい。

ここには異様な熱気が満ちていた。
この季節にも関わらず、ロディの額には汗の玉が浮かんでいる。
娘を抱えた彼は手惑いながらも、筆を持たせた少女の手を自分の手で覆い動かして“イリス・シャポナリア”と記す。

「完璧で御座います。
さあ、娘をおいて魔方陣から出られてくだされ。」
そう言いながらもコラトの瞳はロディを向いていなかった。ただ食い入るように、たった今“目録”へ刻み込まれた文字を見つめている。

初めの字から順に虹色の揺らめきが文字を渡った。目で文を追ったのを思わせる動きだ。
その虹色の視線が最後の字を通り過ぎた時、ぱきり、と見えないものが弾け飛んだのを知覚する。
トゥーレの術が解けたのだ。

おいでなさった。

この二十年間待ちに待った瞬間。一瞬にして胸に満ちた興奮をロディに知られないよう深呼吸をする。
もっとも、彼には周りに注意を向ける余裕は無かったようだが。

前触れもなく、魔法陣中に横たえられた少女の眼がゆるりと開かれる。
磨きたての銀細工のような面差し。
発される異常なまでの気配がまだ微弱なのは隠されているからであり、それでも確かにそこに在った。

「…どうした。コラト。」
「何でも御座いません。
次の手順に思いを馳せておりましてな。ちょっとした儀式を行います。
それにしても、そろそろ娘の迎えが来る頃でしょうか。」
「ふん。あの男か。
任せろ。」
ロディは不敵に笑い、階下へと降りて行く。

コラトは儀式について詳しく説明しなかった。ロディが聞かなかったからだ。説明した所で納得出来るはずがないため好都合である。
それが信頼の表れだと知りながら、自分の使命を果たす事に躊躇はない。

彼は知らなくていいのだ。知った時には全てが終わっている。

少女を器に鎮座した“それ”はゆっくりと身を起こした。乱れた髪の一本一本が燐光を帯びている。
「御会い出来ると思っておりましたよ。
“虹の女神”殿。」
『否。朕は女神の兆候。
故、朕は時紡ぐ少女にんげん。』

正確には未だ女神は降臨していない。だから自分はまだ“人間の少女イリス”だと言うのだ。
だというのに、現時点でこれだけの存在感を放っているのである。降臨した時には如何ほどの存在だろう。想像もつかない。

古龍エンシェントドラゴンよ。
汝何故朕の眼前に居りしか?』
自らの正体を易々と女神は言い当てた。
全て見透かされているのだ。嘘も誤魔化しも通じはしない。

「貴方様に御会いしたかったからですよ。
時紡ぎを受け継ぐには儀式の手順が存在する。そうでありますな?
その手順を狂わせた。それだけの事です。」

“目録”に名を記し人知を超えた“後継者”は、“導きの赤”に導かれ、自らの“内なる力”を得る。
その過程から“導きの赤”を奪ってしまえば“後継者”と“力”はひとつに成り得ない。

神から借りたその力。ではその神はどこにいる?
人の意識下で目覚めぬ眠りにまどろむのだ。

その“力”そのものが“神”。
融合すべき、少女と彼女の神性。
少女の内に解け消えるはずの“力”。
目覚めぬはずの“女神の人格”。
ひとつの身体の中に、二つの人格は存在できるのか。

“定めの乱れし時、我降臨す。”

『して、汝何を望む?』
「人のまま、新たな“時紡ぎ”を生まれさせる訳にはいきませぬ。」

“女神の人格”と“人の人格”では、“女神”の方が強い。
“女神”は人ではない。
身体は人、精神は神。

その身体を魔にする事が出来れば、“次代の時紡ぎ”の存在を限り無く魔に近付けられる。

その為のリドミの魔薬だ。
___私は時紡ぎを手に入れ、世界を変える。
そのために女神を地に降り立たせた。

「貴方様には、これをお使い頂きたく存じまする。」
小瓶をコラトは袖元から取り出した。
澱んだ薬である。
まさに先ほど出来たばかりであり、まだ人肌に温かい。何人殺したかなど、コラトには今更何の意味もなかった。

『不可なり。
未だ朕に之許されず。
導き失われし時。
緑の樹灯りし時。
朕降臨す。
其時、天道が定めようぞ。』
その言い方には含みがあった。
「貴方自らの意思では出来ない、という意味ですかな。」
『然り。』

「私が無理に飲ませようとしましょうなら、」
『さすれば、朕立場に合いし抵抗を行わん。』
“而、我は時紡ぐ少女。”
か弱い小娘としての抵抗を行う。

現在、彼女は少女イリス。定めを正す者として、それ以外の存在としての干渉は行わない。
降臨が成されるまでは。

古龍と少女ならどちらが強いだろう。そんなこと、口に出さずとも明白だ。
白い少女の頬に皺だらけの指が触れる。大気が覇気に震える。

これを彼女に飲ませれば、やっと世界は我らを優しく包む。
分かっていながら最後の一歩が踏み出せない。
二十年、二十年だ。この長い年月、私は___。

心中を占めた気持ちの意味を言葉にするのを拒む。
口に出してはならない。私は“ここ”に立っているのだから。

力を抜き彼女から離れた。それを見た女神は苦笑する。
『まぁ…よい。
朕の降臨は近付いた。』

「そうですな。
“導く赤”殿には悪いですがな。
この役目を失ってしまえば、時紡ぎと賢者との間を繋ぐ事くらいしか存在意義がありませんでしょう。」

緑の樹には“賢者”が導き、“霧の守護”が行く先を照らす。
さて、既に彼女は“賢者”を見つけているのだろうか。
伝承を逸脱した時紡ぎの今後は、我ら地を這う者どもには予想する事もできない。
行く末は神のみぞ知る。
その不可視さの直中に、我らの為の未来の可能性がある。

龍の憂いは深く、未来への切望も深い。
自分はどうなろうと構わない。
小さき者達が笑える明日を作る為にならば、何だってしよう。
しかし甘さは許されないと自身に枷しながらも、その“小さき者”の範疇は二十年かけて変わりつつあったのだ。
それはまた、別の話。

龍は思いを断ち切るように瓶を少女のポケットにしまう。それを“女神”だけが見ていた。

これは少し前、王国を動乱が襲った時の出来事である。



伝承サーガにはこうある。
遥か昔、神は天に昇って地から去ってしまったけど、地の世界の運行を維持する役割を代理人に任せた。
それが時紡ぎ。

でも時紡ぎは地の生き物で、創造主は天の存在。
深く隔てられたその双方の間を繋ぐのが、天翔ける“虹の女神”なんだ。」
ラシュームの語りは簡潔だったが、多くの要素を省いたようには思えなかった。

生きた宝石リビングジュエルはイリスに言ったのだった。
“力を示せし者、地を這う定めを負いながらも神に一番近き者の後継者よ。我はそなたに変革を与える者である。”

「…どうしてそんなのが。」
紛れもない神の眷属じゃないか。それがなぜイリスに降りているのか。

時紡ぎとはそういうものなのか?
今までの成り行きからでも、とても判断出来ない。
こういうことはラシューに聞けば分かるはずだった。

しかしその返答は俺の問いよりも戸惑いに満ちていた。
「分かんない。」
所体なさげな声は小さくて、不安をかき立てるに十分すぎる。

レイは黙って唇をかんだ。
自分は少しは前よりも時紡ぎを知ったと思っていた。それは甘かったのだし、さらにラシューなら何でも知っていると頼り切っていたのだ。


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