曇天、虹色地平線 緑の公国 14 試練



「分かんない。」
ラシュームの一声にレイは唇を噛んだ。そうでもしないと無責任な台詞を吐いてしまいそうな自分を封じたのだ。

そのまま途切れるかと思ったラシューの言葉は予想外に続く。後になるにつれ語気は荒くなり、一声叫ぶと止まった。
「“虹の女神”は神の伝令だ。“導きの赤”によってイリスちゃんは覚醒し、だから宝石は失われた。
そのはず、なのにっ!!」
知っているからこそ惑う。
その表情はありありとそう物語っている。

こんなものサーガに載ってない。

レイは静かに“女神”へ再び瞳を向けた。
隠されていたのか、それとも何かが決定的に違ってしまったのか。
確かなのは、始まってしまったものはもう起きなかった事に出来ない事だった。

今までの勢いが信じられない程に弱々しくラシューは呟く。
「でも、これは逆にいいことかもしれない。
レイやイリスちゃんが苦しまなくても、“女神”なら確実に世を守ってくれる。」

モンスターに攫われたり怪我したり、俺達の旅はとてつもない綱渡りだった。
確かに“女神”が動けば、モンスターに脅かされる事など万に一も無いだろう。
それが、おそらく世界のための最善。

『汝“霧の守護”。』
「…………おう。」
自分が呼ばれたらしいと、すぐに気付けなくて返事に間があく。

『長きにわたり御苦労。
朕に守護は要らぬ。
我、定めを正す力を持ちて何をか阻まれる事あろうか。
汝、人の世の輪廻に戻るに何をかためらう事あろうか。』

人にあらざる存在の眼に見据えられ、ぞくりと冷たいものが背筋を走る。
しかしその言葉はとても許容出来るものでは無かった。

「お役御免って、事か。」
『然り。』
しち難しい表現をするわりに、その肯定は酷くあっさりしている。

“お前が俺を必要としてる間は、放って行きゃしないさ。”
自分のこの言葉は一つの不安を孕んでいたのだ。

もしも必要としなくなったら?
いつか来ると自分に言い聞かせておきながら、いざそうなってみれば、そんな日が来るなんて信じていなかったのかもしれない。

___イリスとの旅が終わる。

自分の日常から彼女がいなくなると思っただけで、色々なものが崩れ去る心地がする。
俺にとってはイリスこそが“女神”だった。

始めは彼女の出す答えは綺麗ごとにすぎないと思っていた。
でもイリスと過ごすうちに気がつく。
「綺麗ごと」って言葉はただの諦めにすぎないんじゃないか?

諦めない所にイリスの力がある。

なら俺だって、簡単に諦めていいはずがない。
龍は牙を取り戻したのだから。
“お前と旅が出来て良かった”とイリスに伝えたのだから。

俺には到底見つけられないその答えを、彼女は幾つも見せてくれた。
“龍牙”であると同時に“俺自身”として、あんな答えを出せる娘を消えさせてはならない。
旅の理由はそれで十分だ。

揺らいだ瞳は意思を取り戻し、女神からは二度と逸らされない。
「“そいつイリス”と話をさせてくれ。俺が約束したのは“あんた”じゃない。
“そいつ”がそう言うなら、大人しく去るさ。」

イリスの言葉。
“だから…これからも一緒に旅してください。”
交わした約束は、まだ果たされていない。

しかし虹色の光を纏う乙女の返答は絶望的だった。
『不能。
我は娘、娘は我。
白繭の中で溶け合い、既にその姿見る事能わず。
僅かな残滓も深淵でいずれ消ゆる。』

ここにいるのに二度と会えないなんて、とても信じられるはずが無い。
「じゃあできねーな。
“あんた”はイリスじゃない。」
軽い調子で呟き、左右に手を広げてみる。それだけで脂汗が浮かんだ。

引き際を心得ているのが冒険者だ。
武人と違い、必ずしも相手と戦う必要は無い。冒険さえ成功すればいいのだから。
女神それ”は冒険者の勘から言えば、戦ってはいけない存在だった。

瞬間、彼女はくすりと笑った。
その微笑はこの世のものとは思えない程に美しい。どこか現実味の無い、現し世のものではない笑み。
『我が言が聞けぬか。
ならば示してみよ。
我を従わすに足る力、
我が汝を認めうる力を。』

ごそ、と大気が音をたてて動いた。
俺らしくもなく、反射的に怒られた子供のように肩が跳ねる。なんてこった。震えが止まらない。
空間を揺らがせ、彼女の背に荘厳にして伸びやかな翼が現れた。優しく柔らかい光が具現化したそれは、逆にむしろ恐れを覚えさせる。
長い髪にプリズムを踊らせながら微笑み、瓦礫の上に腰掛ける___天女。

これこそ天界の造物だ。

大気が震える程のエネルギーにもかかわらず、髪一つ乱れない。
不可侵。これほど強い直感を得た事は無かった。
彼女の瞳が俺に向けて引き絞られた。鼓動は落ち着く気配もない。
心臓が弾けそうだ。

これが、神の敵にまわる感覚。

硬直した精神を引き戻したのは、必死で俺の腕を引っ張るラシューだった。
「レイ、無茶だ!!」
「知ってる。
だが、引く気は無い。」

ラシュー、お前は強い。
俺もお前のように“俺の戻るべき所が、どこにある”じゃなくて、“俺の守りたい場所は何処なのか”を大切にしたい。

“女神”が俺達を導いてくれるならそれはそれでいいし、何の文句もない。
だが。
もう一度イリスに会いたい。
それには、全てを賭ける価値がある。



こんな気分知らなかった。
私はここにいるのに、どこにでもいる。まるで合わせ鏡の中に引き込まれたかのようだった。

“虹の女神”。

その意識と半ば混ざり合い、“自分”が分解されていく。
心地よいのは、これが正しい事だからか……捕食者の麻痺で幸せな夢を見ながら死んでいく獲物と同じ事だからなのか。
答えは出せない。
そもそも私には既に受け入れる以外の事が出来るはずもない。

これが私の旅の終わりなのだろうか。
神ならばあの悲しみの連鎖を世界から取り払える。それは果てしないハッピーエンドに思えた。
自分のものでない眼が世界を見るのを、ぼんやりと私も視る。途端に世界の意味が解き明かされていく。

これは、神の視点。

世界は一つの大きな織物だ。
それが途絶える事なく織られ続けるよう、時の糸を紡ぐ者。
それが時紡ぎ。

織り手の交代を迎え、絵が揺れる。
織り目は戦乱の形に乱れた。
居ながらにして全てが分かる。今まで以上に世界が姿を変える。だが。

この視点は圧倒的に孤独だ。

ラシュームさんがどうなろうと、彼の叔父さんがどうなろうと、巨大な織物の片隅の絵柄が僅かに変わるだけにすぎない。
自分が世界に介入しないとは、こういうこと。
誰の痛みも感じ取れないまま誰を救うというのだろう。

消えたくない。

痛烈にそう思ったのは、“彼”の気配が心中に蘇ったから。
それが誰なのか、もう思い出せない。
女神には必要のないものだし、女神の精神に侵されて消えゆく自分にも必要ないとされる記憶もの

でも___この記憶を失いたくない。
霧散しようとしている自分を繋ぎ止めるものがある。
誰かの声。
私にとって大切な誰かだ。
失いたくない誰かだ。



レイは抜き身の刃を女神に向け、彼女との距離を測る様な素振りをした。
女神が立ち上がる。その一挙一動が、蓮華が花開くごとく鮮やかな残像を残す。見るものの目を半ば強引なくらいに奪うそれに、レイは眩しいものから目を守る様に顔をしかめた。

瞬間、レイが仕掛ける。
「『跳躍』っ!」
この直前まで向き合っていたはずのレイが、一瞬にして女神の背後を襲う。
牙の銀の輝きが閃いた。

「っ!?」
しかし叩き切ったそこには誰もいない。獲物を見失った彼が剣を引くより遥かに早く、女神は彼を捉えている。

背後だ。

レイには何が起きたのか分からなかったろう。全て見ていた僕にすら分からないのだから。
彼女は足一本動かさなかった。だというのに彼女は瞬時にレイの一撃を躱し彼の背後に回ったのだ。その速さは、光が水を渡るのを思わせる。

そして彼女はただ手を伸ばしただけに見えた。まるで優しく肩を叩きでもする様に。
轟音を立てて風に近しい何か別のものが吹き抜ける。
その場に突っ立ったままだった僕は慌てて身を伏せた。固まっているクーヴァの手を引っ張り同じように伏せさせる。叔父さんは声もなく、だらんと腕を垂らし呆気にとられていた。

忘れる事の出来ない“あの”色を見てやっと悟った。
…これ以外の全ての白は偽物だ。
イリスちゃんの“ホワイト”。

彼女は空間を有無を言わさず塗りつぶすそれを、局部的に___しかも予備動作をほぼすることなく___行ったのだ。
それは何よりも鋭い刃となり、抗えるはずも無い巨大なエネルギーとして獲物を肉片すら残さず消し飛ばすだろう。

食らえば死は免れない。

そう気がついたのは既にその細い腕がレイに向けられた後だった。
僕の蔓も間に合わない。

___駄目だ!!
目も閉じられなかった。レイがもんどりうって頭から木々の中に突っ込む。
それが何故だかスローモーションに見えて、思わずその名を叫んだ。

「…レイ!!」
「何の術だっ!?…っく!」
予想外に元気そうな声。
がばっとレイが起き上がる。ふらふらと頭を振ってみると再び剣を構えた。

…死んだと思った。
あの僅かな間に身体を捻って避けたのか。
とても互角とは言いがたい。しかも女神は自分からは攻勢に出ていないのだ。
でも、瞬殺されるでもない。

「神様と渡り合ってる…?」
印象は遊ばれているかのようだし、恐らく女神は本気ではない。何を狙っているのかは分かるはずもないが。
“女神”と“霧の守護”の戦い。これがどう転ぶか、何の意味をもっているのか…“賢者ぼく”には分からない。
それでもレイは持ち堪えて隙を待っている。

「埒が明かねぇ…。」
何度目かの女神のカウンターを掻い潜り、レイは小さく呟く。そのまま数歩下がった。
「『人の血に眠る龍よ。今、四肢が揃う。太古の眠りすら切り裂く牙___』」

龍牙はその牙を慣れた手付きで手元でくるりと回し、逆手に持ち直す。銀の光が弧を描いた。
龍が身震いした、ように見えた。
龍は血塗られた牙をもって獲物を捕食するべく大口を開く。
牙はやっと有るべき姿に戻り、本来の鋭さを取り戻した。

「『巌貫龍囓』」

そのあぎとは女神などひと飲みにしてしまえる程に大きい。
獰猛な龍が女神に齧り付く。
しかし響いた硬質な音は女神が噛み砕かれたものではなかった。神々しい後光のような___翼が彼女の周囲に広がる。

翼で弾かれた。

失速したあぎとは霧散するが、レイはもはやそこにはいない。
二枚の翼膜の間から女神の傍らに滑り込んでいる。
そのまま頭から突っ込んで彼女を押し倒した。
しかしそこで、流れるようなその動きは止まってしまう。

気付いてしまったのだ。
彼の刃が殺意を持たないにも関わらず鈍りもしない理由。

それは“考えない”こと。
自分がやるべき事以外は思考を停止して、自ら意図的に自分を思考を持たない歯車にする。
それは一度でも“見ない事にしているもの”に気付いてしまえば脆くも崩れる。

気付かずにいられるものか。
目前の彼女の身体は、紛れもないイリスちゃんのものなのだから。


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