曇天、虹色地平線 緑の公国 15 少女



組み伏した彼女の瞳が否応無しに飛び込んで来る。
澄んだ瞳だ。
一気に血の気が引いた。

自分はどうするべきなのか………どうしたいのか。
女神を認めさせる?どうやって?

これから取るべき行動が自分の中に無い。
このまま終わるなど出来っこない。それなのに真っ白になってしまった思考は戻る気配もない。
彼女の肩を押さえたまま、その瞳を覗き込むだけ。

心がざわついた。
ただ恐れだけが在る。

イリスは俺を悪い夢から醒ませてくれた。俺は情けなくも今だって“この”悪い夢から導き出してくれるよう祈っている。これがただの“夢”であるのを願っている。
そんなにも、いつの間にかこの関係は自分の心の重要な部分に陣取っていた。それが容易くも…崩れる?

やっと気がついた。
あまりにも自分はこの関係に縋っていたのだ。
失われた片牙、もう戻らない仲間。俺はそのぽっかりと空いた心の隙間をこれで埋めて見なかった事にしていた。
そのくせどんなにしても、彼女の笑顔をはっきりと思い出せない。自分は本当に“イリス”自身を見ていたのだろうか。自分の苦しみを誤魔化す為のものとしてしか認識していなかったのではあるまいか。
物理的には目の前にいるはずの彼女の中に、幾ら探してもイリスが重ねられない。

こいつはイリスじゃない。
知りながら、斬れるはずが無かった。

俺はどうしたいんだ?
女神の深い色した瞳が俺を見つめる。答えを待っているんだ。

見つからない。

何よりも不甲斐なさが先に立った。
自分が無力なのは片牙だからだと思っていた。だが…違った。

俺はまた仲間を失うのか。
行くべき場所を、行うべきことを見失い、焦躁の中で無力に打ちひしがれる。そんな自分はもう嫌だった。
こんな自分じゃ“あいつら”の価値まで下げてしまう。あいつらに自分がしてやれるのは、もうこんなことしかないのに。
しかし俺は親を見失った子供のように今だ立ちすくんだままなのだ。

「………イリス。」
その名を呼んでみても何かが変わるでもない。だというのに神の名を呼ぶかの様に幾度もその名を紡ぐ。

「イリス、俺は…。」
言ってくれたじゃないか。
“一緒に行く人は、俺じゃないと駄目なんだ。”って。
俺をそっちへ引っ張ってくれたじゃないか。

奥歯を噛み締める。それでも堪え切れなかったものが目頭を熱くする。
こんな自分なんて___。
許されない。俺が許さない。

思いと反して、決壊してしまった堰はもう戻らなかった。



恋しいその声を聞く度に自分が再構築されていく。
彼を好きな私と、女神は“別”だ。

…レイさん。

彼の事を忘れられるはずが無い。
手を伸ばす。
いや、もはや自由になる腕がない。

それでも。

___温かい。
力は外にあるはずなのに、身の内に満ちているものがある。
今の今まで感じる事の出来なかった自分の唇の存在すら自覚できる。
そっと動かしてみた。

呼ぶのは勿論、あの人の名前。


伸ばした手がその頬に届いた。
彼の瞳が“私”を見る。
なんて苦しそうな顔をしているのだろう。

濡れた彼の頬を優しく拭う。その存在を確かめるかのように。
彼は頬に添えられた指に抗うでもなく、なされるがままにこちらを見ていた。

何が起きたのかなんて重要でない。
ただ求めた人がここに在る。それにも増す奇跡は私には無いのだから。

「レイさん。」
自然と少女は、はにかんでいた。
涙で濡れた右手をそっと離す。さっき感じた温もりがここにあった。見開かれた相手の瞳を覗き返す。
「温かいです。」
レイさんは何とも形容しがたい表情をし、一言だけ返す。
「___そうか。」

あまり長く私達は見つめ合ってはいられなかった。
自分の体を受け止めていた光翼が溶け出す。ばらばらの小さな欠片は星のように煌めいた。

一瞬の光の海。

似たものも見た事が無いほど美しいのに、何故か郷愁を蘇らせる風景だった。懐かしいあの原っぱも、街を過ぎ行く人の面影も、戻らない過去の全てがこの中にはある。
その金色の海に、揺らぎ立つは一つの影法師。

『良き哉。及第なり。
汝、自らの資格を示せり。』

こんな光景、いままで見たことがない。でも心の奥底の“自分”としか表現できない所が教える。
“女神”だ。
少女は初めて“彼女”と対峙した。
今の今まで同じ存在だった相手とこうして会話するなんて変な気持ちだ。

眩しい光の中でなお光沢ある輝き、それが“女神”だった。
『自らの力に喰われせば、任せられぬ。さあれば我が行ひし。
過ぎた試験とは思いしかば。』

女神の、試練。

その意味を察する事が出来ず、呆ける。
素早く身を起こしていたレイさんは私を助け起こす。見た目はいつもと変わらぬ平然とした所作だったが、私の肩に回された腕は震えていた。
「んなぁっ!?
試したのか?俺達を!」
憤慨した彼の台詞に、“女神”は喉を鳴らして笑った。
レイさんはこっそり自分で頬を拭ったのだろう。しかし逆に、手の汚れが伸ばされて擦った跡がはっきり浮かび上がってしまっていた。

『“霧の守護”よ。汝も申し分ない働きなり。
清霧、大気を潤し、
虹橋、其姿を表す。』

私の中の“女神”が教える。
私という“虹”を蘇らせるのは、彼という“霧”でなくてはならなかった。
そう、レイさんじゃなかったら…“霧の守護”が彼じゃなかったら私は戻って来れなかった。
恐らく分かってない彼は不満げだ。

でも、教えない。
私の気持ちは恐らく彼を困らせるから。

『我は又、深き眠りにつかん。』
「待ってください!まだ…!」
レイさんと再び旅ができる、その喜びに占められていた心が萎む。この感情の名を知っていた。

___不安。

自分は一体何を示したというのか。
女神は何をもって及第と言ったのか。
私に時紡ぎを務めるだけの力があるのか。
この身体を女神にあげる訳にはいかない。…でも。

『基より地を這う汝等に任せし未来。
汝の未来は汝が決めるべし。』
記憶の海にたゆたう水面が輝いたのは、女神の笑い声だ。
その光はそれ以上言葉を発する事無く溶け絡まり、蜃気楼のように消えた。

掴み損ねた光の欠片は、指から擦り抜けざまに呟く。
___今日まで汝が行いて来し事、其が答え。



「___今日まで私が行って来た事が、答え。」

少女の瞳は、いまだかつて見た事が無い強い光を湛えていた。それにレイは少しばかりでない驚きを覚える。

冒険者の街で見た、青ざめ震えた顔。
魔法公国で見た、夕陽に照らされた微笑。
王国で見た、涙を浮かべた怒鳴り顔。

そのどれとも違う。
言うならば……始まりの街で見た、“世界”を求める瞳。それが一番近いだろうか。

少女の声は深い。
「レイさん。私全部聞こえてたんです。」
繭の中で女神という孵化を待ちながらも、外界に耳を澄まし続けていた。
「お節介かもしれません。
でも…レイさんは止めますか?」
少女の中で何かが決まったのだ。

止める?
今のお前を見た俺がそうするとでも?
「やってみろ。
それがお前の望む未来に繋がるのならな。
その未来を誰もが望むなら、自然と結果は出るだろう。」

それに付き合うのも、また一興。
お前はもう“自分の為の”お節介はしないだろう。
じゃあもう言いたい事は何もない。
やってみろ。お前のやり方で。

「私は“時紡ぎ”として世界を救いたい。
でもそれよりも小さいからって、誰かの思いを見なかった事にはできません。」

「いいじゃねーか。
世界を救うってのも、そもそも大きなお節介だ。」
「…ですね。」
少女の笑みはもう惑ったものでは無くなっていた。


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