思い出すのは、あの日の事。
私はただ突っ立ったままだった。惨めに地に這いつくばる事すらできなかった。
兄が姉が血を流しているのただ茫然と眺めていた。身動きのたったひとつでもすれば、“それ”の注意が自分に向いてしまう気がして震えていたのだ。一人になってしまった子供すら守ろうとせずに。
いや、あの時、兄上が親族を手に掛けた事に意を唱えられなかった時から自分は震えるしかなかった。
目の前で傷付いている人が大切な人だと知りながら何も………しなかったのだ。
弱さは罪だ。
もう二度と諦めない。かならず手を伸ばして掴み取ろう。
血を吐く思いで心に刻んだ決意はまだ確かに生きている。
“私が”守る。
女神の気配が遠く去る。
全て夢だったかのようだ。
神の御姿を御声を、その存在をこの眼で見たなどと。
しかし夢ではないのは分かっていた。
夢は所詮まやかし。
夢が覚めた後は、夢を見る前と何も変わらない。
そんな意味で、私はこれが現実だと自覚せざるを得なかった。
彼女の存在は私に残酷にも教えた。
人ならざる者の前で震える自分が、あの時から何も変わっていないのを。
「私には義務がある。義務があるのに___。」
努力して努力して努力して、どんなに手を汚しても守ろうとした兄上との約束。
“フロールが守ろうとしたこの国を、最後まで見守れない事だけが心残りだ。
この国は、お前に任せた。”
やり直しは出来ない。
もう戻れない。
だというのに___
兄上。姉上。
私はやはり王の器では無かったようです。
___こんなにも折れそうなのです。
夢を見る前と異なり大きく揺らいでしまった自分。自分が積んだ土台は酷く歪んでかしいでいて、とても目指す高みまで登れないのを知ってしまった。
それはもはや絶望だった。
それでもまだその約束に寄り掛かるようにして、マクスマレーンは立っていた。
「行け!」
「うぎゃあっ!!?」
油断しきっていたラシュームを後ろから掴み上げる。
自分の実の腕と連動する黒い根の片腕は、ぎちぎちとラシュームを締め付けた。
彼の体を握りつぶす事はとても出来ないだろう。
しかし彼は抵抗らしい抵抗はしない。ただ私を見据えている。
「僕は…!!」
何かを言い損ねた甥の眼は、あの言葉を言った時と同じだ。
“僕は叔父さんとフィーコメヴィで過ごした日々を覚えてる。こんな結末は嫌だ!!”
忘れるはずがない。
私だって覚えている。
それでもチクリと胸をさした記憶を追いやる。
人心が惑えば戦乱が起きる。約束を守る為には、この国の平和を築く為には___王は一人でなければならない。
「まだ言うか。歳はすでに投げられた。
言うなれば10年も前に既に投げられていたのかもしれぬな。」
姉上が亡くなったあの日に、全ては始まってしまっていた。
今度こそ私は無力な自分と決別する。
つい少し前に繰り返されたままのやりとり。
何ら変化はない。先ほど不可抗力で止まってしまった未来への道筋を忠実に辿るだけだ。
種が芽生え花を咲かせるように確かな流れ。
しかしそこに草原を揺らせ命を育む風のごとく、割り込んだイレギュラーは、やはりあの少女だった。
「手遅れなんてありません!」
変わった術を使う。それ以外に何も特筆すべき所のない普通の少女。
本当にこの娘が“時紡ぎ”の後継なのか?
ポケットから薬が出て来るまで、その疑念が拭えなかった。未だにその素振りはただの村娘にしか思えない。
そのはずなのに。
彼女の真直ぐ覗き込んでくる瞳を見返せないのは何故だろう。
「貴方と分かり合いたい相手は、まだ生きてるんです!」
少女の表情に苦いものが走る。後悔してもしきれない記憶が蘇ったごとく。
思い出を整理するようにゆっくりと発される言葉。しかしそのまなざしは紛れもなく、悔いた過去ではなく私に向けられていた。
「死んじゃったらもう取り返しがつきません。二度と話す事も出来ないんですよ。
でも貴方達は、違う。」
涙ひとつ流れていないのに、何故だか少女は泣いているように見える。
「目の前の相手をよく見てください。
頭の中で勝手に作らないで。
本当にその人は貴方の“敵”ですか?」
敵だ。その立場が敵だ。
しかし少女がそんな答えを求めているのでないくらい分かっていた。
ラシュームが私を慕ってくれている事も、自分の奥底で彼を切り捨てるのを嫌がる気持ちがあるのであろう事も、全て知らないふりして私は告げる。
あの好機に甥を握りつぶせなかった。それは憎しみの瞳を得る事で、“仕方ない”と納得したかったからだ。
その納得を、もはや待てない。
「それが何になる。
もう事態は動き始めたのだ。」
「それがどうしたんですか。
今からでも間に合うんです。いつだって間に合うんです。
それから決めても遅くありません。」
幾度否定しようと少女は繰り返した。檄高することもなく語りかけてくる。
諦めない。
その態度はそうはっきりと告げていた。
「決める?
ふん。君は自分の望む言葉を私に言って欲しいだけではないのか。」
「その気持ちは少なからずありますね。
でも私はもう一度考えてみて欲しいだけです。
ラシュームさんが何を言っても、貴方は既定事項を振りかざすだけ。せめて考えるだけでもしてあげて欲しい。」
予感がした。私の全ては見抜かれている。
恐らく“女神”の眼の力で。
私に的確に切り込む少女の一言は、その証と思えた。
「力なくしては語れない。本当にそうなんですか?」
「……。」
そうだ。“緑の証”が王を示す。即ち___力。
だがその心の片隅で、泡の様な疑問が浮かぶ。小さくはあったが騒ぎ立てるその声を押しやる事は出来なかった。
違うのだろうか。
ラシュームは力を失う事を選ぼうと揺らがなかった。
その姿に“無冠の王”を見る。
“緑の証”が有ろうと無かろうと王の器はそこに示された。
___魔と人の区分なんて意味のないものであったのかもしれない。
万に一でもそうだったならば、私のしてきた事は何だったのか。
魔族と取引までして得た力___。
いや、それは不可欠なものだった。
「そうだ。
そして…手を汚さないと大切なものは守れない。」
私の行いは必然であった。
この国を守る、その為にだ。
「それはっ…」
「正しい。」
少女の言葉を龍牙の声が遮った。肩に回していた腕で少女を引き寄せ、その続きを封じる。
彼の顔には親近感とでも表すのが相応しい笑みが湛えられていた。
「でもな、本当に大切なものは何だったかは自分で考えろ。」
本当に大切なものは何“だった”か?
昔から、そう、私が王の教育を兄上から受けるようになった時から、大切なものは変わっていない。そのはずだ。
だが引っ掛かる記憶がある。
この迷いは、何だ?
フィーコメヴィで過ごした、最後のあの夏。
「もうこっちに住む事は出来ないかもしれない。」
やっと言えた。
言わなくてはならないのに先延ばしを繰り返していた言葉。
小さな子供相手に滑稽とも言えるほど気を使って、やっと口にする。
“首都で暮らす事になる。”
言えば誰もが祝福した。
“それはそれは…おめでとうございます。”
“本当にメーコック様は弟思いですな。”
だがその事実をこの子にだけは伝えたくなかった。
自分の姉の息子であり、自分に懐いてくれる子供。弟にも等しく思っている。
彼を悲しませたくなかったのだ。
しかし大切に思うなら大切に思うほど、誤魔化しは許されない。結果、私は正面から瞳を逸らさずに伝える事になった。
子供の表情が強張る。
その表情から、彼もそれに薄々気付き、また恐れていたのだと知った。
文句の一つも言われると思っていた。
罵られ喧嘩別れしようとも、それを甘んじて受けるのが私の義務だと。
子供の柔らかい頬を幾筋も涙が伝った。
口数が多く、子犬みたいにコロコロと辺りを駆け回っている、いつもの姿からは想像出来ない静かな涙だった。
その姿に私の思い描いていた罪滅ぼしは所詮自分の為のものにすぎなかったと、そう分かった。
“また遊びに来る”とか、“これから兄上の御手伝いができるんだ”とか、言うべき言葉は沢山有ったのかもしれない。
楽しそうにそう言えば、この子を泣きやませられたのかもしれない。
でも言えなかった。
____その感情が、嘘だったから。
今まで首都から離されて育てられた先王の第三子が、今さら首都で帝王学を学ばされる。王家の歯車に組み入れられる事に他ならないではないか。
嫌だった。
それに自分はまだ兄上が怖かった。
あの日、兄上に呼び出された姉上と一緒に首都へ行ったのを幾度後悔したろう。
自分はまだ、兄上が姉上を殺したんじゃないかと疑っている。
その不安を全部独りで抱えて、兄上の言うままにあの日の惨劇に口をつぐんだ。この子は母が何故死んだのか知らないまま___その罪悪感も有ったかもしれない。
しかし全ては受け入れるべき現実。
私は王家の人間として、それに背く事は許されない。
泣きじゃくるその頭に手を乗せ優しく撫ぜた。
しゃくりあげが少しずつ収まっていく。
継承されなかった正当な王位継承者の直子。私と同じく王家の人間として生きざるを得ない子供。
こんなにも健気でいじらしい子にも、過酷な運命が負わされている。
この子の人懐っこい笑顔も奪われてしまうのだろうか。
それはしごく当然な事に思えた。
私がこの子の笑顔を守ってみせる。
このフィーコメヴィで過ごした、今までのように。
潮風が優しく吹いていた。
それは幼い日の誓い。
必ずこの国を自分の手で平和にする。
___そしてこの子を守ろう。
私の出発点は、そこだった。