曇天、虹色地平線 緑の公国 17 王と思い



本当に大切だったもの。
忘れ去ったのか、忘れ去りたかったのか、帝王学を仕込まれるうちに心が殺されていったのか。

二つのものを同時に守るにはどうすればいい?

そこでやっとマクスマレーンは、必ずしも手遅れではない事に気付いた。



私が彼を放っておけないと思ったのは、ラシュームさんの叔父さんだからだけではなかった。
「貴方は、恐らく私と同じだと思います。
目的の為の手段のはずが、いつの間にか手段が目的になっていた。
それに気がつかないまま“終わり”にして欲しくなかった。」

私が初めは世界を旅するのが目的だったのに、気がつけばレイさんと一緒にいる事が目的になっていたように。
どちらか片方に選びかねてしまっていたイリスは、故に彼がそれを自覚しないまま未来を決してしまうのを恐れた。
手遅れになってしまってからそれに気付くなんて___。

マクスマレーン王の瞳は今までのものとは確実に違う。
届いた。ならば。
後は貴方が決めてください。
それが誰もに幸せな結末である事を祈るだけだ。

「…そうだな。
私もいい加減選ばねばならぬな。」

凝り固まった思考が解かれるように、黒い根は地に消える。
解放されたラシュームさんが座り込んだ。
___通じたのだ。

王様は彼にそっと歩み寄った。
深青の瞳には安堵と、僅かな後悔が湛えられているようだった。

「苦労をかけた。」
「…叔父、さんっ!!」

涙ぐむラシュームさん。その頭にそっと王様は手を置く。
それは言わば、二人だけに通じる暗号だった。
しばらくの間黙って彼はその頭を撫でていた。撫でられる方もじっとしていて、ただ分かり合えなかった時間を埋め合わせようとしているようだった。

落ち着いた低い声は、次に私達に向けられる。
「君達にも酷い事をした。
とても許してくれとは言えぬが…。」

思わず笑顔になる。
返答は自然と出た。
「いえ。
大事なのは未来ですから。」
今までの事は帳消しには出来ない。でもラシュームさんと叔父さんが和解できたなら、そんなことよりも今からの日々の方が大切だ。

虚を突かれたのか、きょとんとした王様。
こんな表情は確かにどことなくラシュームさんに似ている。
「なるほど、時紡ぎ…“神に最も近き者”か。」
彼は何かに酷く納得したようだった。

王様は歩き出す。誰も動かない。
だがこの場の雰囲気は、今までの緊迫したものとは全く違っていた。
しかしこの静粛とでも表現すべきな空気の中に、何か密かに混じっているものがある。それが何だか…私には分からない。

ざく、ざく、と王様の足音が響く。
木片を踏み分け歩む姿は、異国の物語に出て来る堂々とした王者を思い起こさせる。

私達の立つ場所からやや神殿の奥に向った所、その瓦礫の影で彼は立ち止まった。
そこにはキーヴァさんが横たわっていた。

自分の傍らに屈み込んだ主君に、やっとという感じで臣下は呟く。
「マクスマレーン様…誠に申し訳、ありませんで…」
「謝るのは私の方だ。」
それ以上の言葉を封じて、王様は彼の上に手を翳す。

温かい輝きが傷を癒していく。
回復魔術。
その優しい光、それが本来の王様その人なのだ。無性にそんな気がした。

つい、と立ち上がったマクスマレーンは神殿の奥へと歩を進める。
その背中から、大気に満ちるような声が、清らかな日光を湛えるこの空間に響く。

「なあ、ラシューム。
私はずっとお前のその緑の民の力が恐ろしかった。
お前が自分を殺して生きて来たように、私もその気持ちを押し殺して生きてきた。」

「叔父さん…。」
立ち上がったラシュームさんは今にも駆け寄りそうで、そうしないのは一歩でも動いたら涙が零れてしまいかねないからだった。

マクスマレーンさんが振り向く。
それは限り無く優しい、肉親に対する笑顔だった。
「しかし本当に恐ろしいのは、そんなものなどではない。
そんなつまらない事に囚らわれて、気付かないまま罪を犯してしまいかねない人の心だ。
魔だろうと人だろうとラシュームはラシューム。こんなにも当然の事であったのにだ。

時紡ぎの少女よ。貴女の言う通りだ。
未だ手は尽くされていない。」

そこには壁に穿たれたのではなく、自然に生じたのだと思われる大きな穴が口を開いていた。
「ラシューム、知っているか。
この穴の事を。」
「…ううん。」

彼はそっと壁を撫でながら語り始める。
「リドミの繁栄を司る、この大樹の中心に続いている。そこは命の生まれる場所だと言われている。」
何故だろう。
脈拍が速くなる。
穏やかな話なのに。もう悲しい争いが終わったはずなのに。

「この穴に身を投じれば、リドミの礎になれるのだと。
失踪する前の晩、兄上が私の部屋に来られてこうおっしゃった。」
確かに穴は人一人くらいなら余裕で入れそうな幅がある。

「そして兄上はそれきり帰って来られなかった。」

静寂の中、息を飲む音が聞こえた。
「その晩私は兄上と約束したのだ。
必ず私がこの国を幸福な国にすると。

___兄上との約束が守れなかった事だけが心残りだ。」

その一瞬だけ、王様は穴の中をちらりと覗いた。
瞬間、私には彼の望むところが理解できてしまった。
声が出ない。
それは、いけない。
止めなくてはならないのに体が動かない。

「ラシューム、後は任せた。
お前こそが…王だ。」
全てを包み込む深海のような瞳をした王は、はっきりとそう言った。



マクスマレーン様はラシューム様を始末するのに失敗したのだ。
それどころか和解してしまった。
予感通り…最も悪い状況である。

まだ上手く動かない身体をどうにか起こす。キーヴァは知らず嘆息していた。
逃げるにしても、戦うにしても、出来る事はたかがしれている。
自分の企みが、王族の二人の知る所になるのも時間の問題だ。

その時、神殿の最奥、その暗く深い穴の深淵でマクスマレーン様は佇んでいた。
震える唇の一言ばかりが耳を打った。

「この国に、王は二人もいらぬのだよ。」

ゆっくりと___実際は一瞬の事だったろうが、自分には何故かスローモーションに見えた___その身を投げる。

マクスマレーン様がいなくなる。
それは自分の計画にとって望ましい展開であるはずで。
私は今すぐラシューム様の方へ向かうべきだった。
どんなに身体を堅くしようと、動く為には関節までもは堅くできない。その命を奪う為に。

しかし勝手に身体が動いていた。
すんでの所で掴んだマクスマレーン様の手を、渾身の力で引く。

腕に力が入らない。
自分が何をやっているのか分からない。
ただ、彼を助け上げようと必死だった。

「放さないでください…!」
逆に引っ張り込まれそうになった体を、後ろから誰かに抱え支えられる。

「引っ張っからな!放すなよ。」
龍牙か。
振り替えりもせず踏ん張ることで答えた。

闇に満ちた穴の中とはいえ、差し込む光にマクスマレーン様の姿が照らし出されている。
その唇は笑いの形に引き結ばれていた。
瞳に宿るのは今までの暗く厳しい輝きではない。
穏やかな、なんと優しげな___。

「お前には、苦労をかけるな。」

あれだけ側にいたのに聞いた事もないような声で、王は囁いた。
痺れがきた腕にはもはや力が入らない。
そんな私をマクスマレーン様は静観している。掴み返して登ろうとするでなく、拒み振り払おうとするでなく。
それはこの均衡が長くは持たないと知っているがゆえに。

龍牙が自分ごとマクスマレーン様を引き揚げるよりも早く、あっけなく終わりはきた。
「ぅあ…くっ!」
震えて汗ばんだ自分の指と、彼の指がずるりと離れる。
その僅か一瞬だけ、彼は私を押し戻すような所作をした。この暗闇に沈むのは一人でいいとでも言いたげに。

こんなにも近かった距離があっという間に絶望的に離れる。
その姿は見る間に小さくなり暗闇の奥底に吸い込まれて消えた。




失われた記憶。
知る者がこの世を去れば、その記憶は未来永劫失われてしまう。
その思いは、交わした言葉は無かった事になってしまうのだろうか。
分からない。

しかし、あの惨劇の日から三年後、マクスマレーンがその甥に誓った日の後、マクスマレーンの統治が始まる僅か以前。確かにこの瞬間は在った。

月の無い晩だった。
「…兄上?
今何と?」
突拍子もなく信じられない台詞に、思わずマクスマレーンは聞き返す。
マクスマレーンの私室。微弱な星明かりは二人の人影を照らすのもやっとだ。
ベランダに続く扉は開け放たれていて、心地よい夜風がふきこんでいる。そこに凭れたメーコックはもう一度その言葉を繰り返した。

「これがお前に会う最後になるだろう。
私がいなくなった後、お前が王になるんだ。」
聞きまちがいでは無いらしい。
メーコックは自分が顔色を失ったのを自覚した。
冗談で言っていい事ではない。しかし実の兄が冗談を言うようなタイプではないのを彼はよく知っている。

「……………冗談だなんて珍しいですね。」
しかし迷いに迷った末に、やっと搾り出すように言えたのはこの台詞だった。

光源はマクスマレーンの座った椅子の傍らにある机上のランプのみである。
こんな夜には弱々しすぎる光は、メーコックの顔に深い影を刻み込んでいた。
「この数年、ずっとお前に帝王学を学ばせた。もう王となるには十分だろう。
王家の血縁に頼らないシステムの構築もすんだ。反乱分子も鎮圧した。
私に出来る事はもはや無い。」

その姿は玉座の上の威風ある姿とは全くの別人で、悲哀に満ちた目をしたただの男だった。
こんな兄の姿を弟は見た事が無い。

「どうしてですか。
兄上は今まで立派に国を治めて来られました。これからもそうなされば良いではないですか。」
「駄目なのだよ。ここまで来るのに私は多くの汚名を被ってしまった。
力による支配は出来ようが、古来よりの心と心を繋ぐものは出来そうもない。」

リドミの伝統。
それを守れないというのは、兄上が緑の民ではないからなのか。
正当な継承筋のみが名乗れる“ギテァナ”の名を継げないからなのか。

弟はひたすら口をつぐむ。
それを口にしてはいけないと知っていた。

「それに私はあの日から、どうにも気力が失われてしまったのだ。」
___国を思い、その資格を持った者が死に、自分の手元しか見えていなかった者が王になった。それなのに国は治まってしまうのだ。___
メーコックの小さく零した言葉は、夜風にさらわれて弟の耳には届かなかった。

「…マクスマレーン。王とは何なのだろうな。」

王。
それは姉上から奪われた王座だ。
兄は王座が欲しくて姉を殺した。
そう思っていたがため、弟は兄の最後の一言___これは文字通りマクスマレーンが最後に聞いた兄の言葉だった___を受け止め切れなくて言葉を失った。

「フロールが守ろうとしたこの国を、最後まで見守れない事だけが心残りだ。
この国は、お前に任せた。」


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