曇天、虹色地平線 緑の公国 18 何故、と問わば答えは無く



腕に掛かった重みがキーヴァ一人分になる。急に重さを失い倒れかかって来る彼の体に押し戻されて、俺はよろめいて穴から数歩下がった。
抱えていたキーヴァを地面に下ろすが、彼は狼狽しきっていて言葉もなく床にずり座ってしまう。その腕は震えていた。故意に放したのではない。

後方より猛烈な勢いで走り来た少年は穴に飛び付いた。身を乗り出してラシューはその暗闇を覗き込む。
顔色は闇に染められたように蒼白だった。
「……やっと分かり合えたと…思ったのに。」
血を吐くような呟きを残し、それきり声は絶える。
少年は固く固く歯を食いしばって嗚咽を堪えていた。


___扉をノックする音。

それに、つい数時間前の事をまた考えていたのかと気がつき頭を振った。
らしくない。
しかしありありと思い出せるのだ。もう僅かに早ければ、あの手をキーヴァの代わりに俺が引けたのではないか。馬鹿な事を考えようが強引に引き上げられたのではないか。
この後悔は、彼を“あいつ”と重ねてしまっているからだ。
分かってはいるんだ。

レイは来訪者に答えるために立ち上がった。



「…どした?」
「うん、レイ。起きてた?」
寡黙に自分を招き入れた相手は見るからに眠れなかったという風貌をしていたが、一応聞いてみる。
レイは黙って左右に首を振った。

彼が扉を閉め、部屋が密室になるのを待ってから、手に持ったものを差し出す。
「これ持って行ってよ。」
くるんだ布を取り払われたそれ。
彼が引き抜いた伝説の剣だ。

あるべき者に手渡されるのを、ギーツ様が岩に突き立てたその遥か瞬間から待っていた。
時紡ぎの幾度も辿られた継承の手順の繰り返しが断たれた、まさにこの瞬間を待ち望んでいた。
未来を切り開く鍵となる“霧の守護”の新しい牙だ。

しかしレイは渋い顔をする。
「そんな訳にはいかねぇよ。これ国宝だろ?」
「まぁね。でも…抜けないって所が重要だったんだ。」
伝説の抜けない剣。それが抜かれてしまえば、もうその価値は変化する。

「神体となるべき剣もある。
でもこの剣は違う。これは祭られる剣じゃない。切り開く剣だよ。
持つべき人が持った方が有意義さ。
それにこれからの戦い、レイは片牙それで戦い抜けると思ってるの!!?」
僕らはただ使い手に出会うまで預かっていたというだけの話。

「___恩に着る。」
口を真直ぐに引き締めて、彼は恭しく僕の手から剣を受け取ってみせる。
その手で半ば刃を抜いた。
冴えざえとした刀身を月光が滑る。
星が降りたみたいだ。
彼はそれを確認すると、すぐさま閉じた。ちん、と涼やかな音がする。

静かな夜。
遠い遠い昔にイゴス様を照らしたはずの星光が、同じく僕らを照らす。
おそらく僕は時を超えてリドミ王家としての役目を果たした。

レイは言った。
「これからお前はどうするんだ?」
心配させてはいけない。
彼らは旅立たなくてはならないのだ。
凪いだ心を奮い起こしながら冗談めいた台詞を紡ぐ。

「王位を継ぐ事になると思う。次に会う時は青年王ラシュームさんになってるよ!!?
もうリドミリェーラス家の者は僕しかいないんだ。」
たった二人だけの肉親が、とうとう一人になった。
絶えるのだろうか。緑の王家は。
「まぁ………叔父さんがモンスターの内通者だったのは伏せる事になると思う。」
リドミ王家の秘密がまた一つ増えたよ、と無意識に一人ごちていた。

会話が途切れる。僕はあれから気がついたらいつも、たった今までここにいた人が、今はもういないという意味を自分の中に探していた。
レイと二人きりでこうして過ごすのは、ナレークのあの夜以来だ。
“賢者”の立ち位置すら拒んでいた子供は、今や本物の“伝説の存在”になった。でも本当に欲しかったものは手に入らないまま。
僕は憧れた強さを手に入れられたのだろうか?

確かなのは、あの夜よりも夜気は確実に冷たく、僕の身の内には病にも似た熱がある。痛みを感じないのは、それを口にすることを禁じたからだった。
「すまない。助けられなかった。」
傍らからの呟きは酷く沈みきっていた。
僕には苦しむ理由があるけど、理由のない苦しみは重荷だよ、レイ。

突き放すように言い切る。
「仕方ないよ。
遠かったんだ。それに叔父さんの望んだ事だった。」
あまりにも全てはあっさりと失われてしまった。

命の生まれる所に還る。
リドミの樹がそれを望んだから、叔父さんの望みを受け入れた。
そういう事にでもしないと、自分は表面上も平静を保てない。凪ぎの湖面の下に渦巻くこの感情は誰にも吐露しないと決めていた。
これは僕の望む僕の強さ。

「叔父さんは緑の民の血の呪いに打ち勝ったんだ。でも完全には逃れきれなかった。」
今まで過ごされた時間に比べてほんの僅かな時間。それでも叔父さんは“僕”を見てくれた。
「歪んだままで行われた選択だった。
でも叔父さんは王として筋を通したんだと思うんだ。」
なんて馬鹿馬鹿しい筋。
それが“人間”なのだ。

いっしょにいたい、って気持ちはこんなにも簡単なのに。
自分の大切な者だけ守るのだけでもこんなに難しい。
でも。

「…どうしてだろうな。」

そう聞いて始めて僕はレイを見返った。
窓の縁に肘をついた彼は外、下に広がる夜の街を眺めていた。
無数の明かりが瞬く。
「どうして王族はこんなに簡単に命を捨てるんだろう。
死にたくないし失いたくない。“あいつら”もそうだったはずだ。」
その“あいつら”は人なのか魔なのか。レイははっきりのべなかったが、僕には分かった気がした。

「世界の歪みすらその上で成り立っている。
なのにどうして、大したものでもないみたいに捨てられんだろう。」
どんなに全力を尽くしても、指の隙間から零れ落ちてしまう……尊く儚いもの。

「きっとそれは、叔父さんが王族だからじゃないよ。」

だって僕は、違う。
もう死なせないし失わせない。
願望ではなく、決意。
皆が笑って生きられる未来を創る。
どんなに不可能に思えても諦める訳にはいかない。
叔父さんが守りたかったこの国を守る。

「そうだな。」
レイはちょっとだけ口を笑いの形に作った。
「お前の叔父さんは、真面目すぎて王に向かない奴だった。」
俯いたその瞳は見えない。表情も窺い知れなかった。
「真面目で良い奴ばかりがいなくなっていく。
どうしようもなく歪んだ世界で真直ぐに生きるのは、理不尽に命がけなんだよな。」
微かにナレークのあの騎士の事を思い出した。

隣りの彼にも聞こえないように小さく、伝承サーガの一節を唱える。
“生命の樹は不動にして来訪者を見下ろした___足掻け、それが生まれた運命さだめだとでも言わんばかりに。”



二度目の別れの時も感慨にふける時間はほぼないと言って良かった。彼の叔父さんという存在が失われてから、たったの一晩。翌日の朝には私達は城門をくぐろうとしている。
御忍びの長衣を被ったラシュームさんは“一度送り出したはずなのに、変な感じだねっ!!”といつものように屈託なく笑った。その直後、傍らに立つクーヴァさんから距離を取り「そーだそーだイリスちゃん。神殿の事なんだけど。」と身を乗り出すようにして囁いた。

「あんだけ派手にやったのに、城内の誰もそれを知らないんだ。
かなり高度な防音“魔法”が使われてる!!
思えばモンスターが仕掛けて来たのは、外部と遮断された状況ばかりだった。
密室で事が進められてる感じがする。今まで運良く僕らがいあわせて阻止出来たけど。」

早口な言葉が僅かに途切れる。表情が不安に陰るが、すぐに笑顔に隠された。
「奴等の企みの全体像が掴めない。結構まずいんじゃないかな。
気をつけてよね。二人とも。」

___“気をつけてよね。”
今までのように側にはいない。
それを見越した忠告。
それを言葉の端々から思い知ってしまって、何も言えなくなる。
沈黙に沈んだ私たちには、やけに周りの音が大きく聞こえた。

「行ってしまわれるのでありますか…!」
「何でお前が泣くんだよ。」
ズビズバっと鼻を鳴らしていたと思ったクーヴァさんは、くっと顔をあげてレイさんを見た。
「私は、私は………御二方に感謝しております。

___どんな結果になろうと、それは変わりません。」
ここにキーヴァさんの姿は無い。
そういう事だ。

レイさんが何と返すのか聞き取れないうちに、ラシュームさんが新しい言を紡いだ。

「イリスちゃん。
何か悩んでる事あるでしょ。」
「……ぇ!?
な、無いですよ!何も。」
「イゴス様には御見通しだよ!!?」
子供のような口調で、瞳は本気。

御見通しか。
そう。私にはあれきり心に引っ掛かっている事があった。

私はあの時、女神となる事を選ばなかったのだ。
「良かったのでしょうか、あれで。」
言わずとも彼には“あれ”とは何か分かっていた。

「イリスちゃんはモンスターになるのは嫌なの?」

モンスターに初めて覚えたもの。それは確かに怒りだった。
それが旅をするうちに形を変え、今では上手く言葉で表現できない。
でもそれは理由ではなかった。

「いえ、魔も人も同じです。
でも私は、あの人と___。」

レイさんと一緒にいたいから。

言いかけて赤面した。
“人の為に戦う”彼の傍らにいる為には人でいなくてはならないのだ。
どちらにしろ“時紡ぎ”になれば、人の域を超えてしまうのだろうが。
たとえそうだとしても、せめて今だけは。
“その時”が来るのが一瞬でも遠い事を祈ってしまうのは罪深いだろうか?
そんなこと出来ないと自分で知っていた。
一分一秒でもこの悲しい戦いの輪廻が早く終わってほしい、と願うこの身では。

本当に、本当に____解せない。
「何で人も魔も一生懸命なのに、誰も幸せになれないんだろう。」

思わず漏らした言葉は確かにラシュームさんに届いて、彼はちょっと眉を上げた。
「そうだね。……うん。」
自分の返答を吟味するような間。
それに一度頷くと、彼は尖らせた唇の前に指を立てる。きゅっ、と引き締まった表情は彼がこの国に入って初めて見せた、あの“賢者”の顔。
この彼もまた、彼だ。

「賢者としての最後の導きだよ。
イリスちゃんの“世界を救う”って何?」

最後の御告げは告げられる。
“時紡ぎの後継者”(わたし)だけに。
「……それ、は。」
戦いを終わらせること。
和解させること。
いくつも答えが脳裏に浮かぶが、明確に答えられる一つのものはなかった。

「おい、そろそろ行くぞ。」
「…ひゃっ!?あ、はい!」
不意にレイさんに肩を叩かれ、思考が吹っ飛んでしまう。
そんな二人を少年はほほ笑ましいものを見る目で眺めた。
口にしたのは、餞別の祈り。

「では、二人ともにイゴス様の御導きがありますように。」

最後だ。本当にこれが最後。
私は何かを彼に伝えなくてはいけないのではないか。これがその最後のチャンスなのではないか。
訳も無くそう思うけど、出て来る言葉は無い。

その時、手を振ってあっさり出発しようとしていたレイさんが思い出したように___本当にたった今頭に浮かんだように尋ねた。
「お前がずっと言ってた、“イゴス様の加護”って何なんだ?」
引き返そうとしていたラシュームさんは、ぎくりとしたように立ち止まる。そのわりに返答には躊躇いが無かった。

「それはさ、二人と出会えた事だよ。」

困ったような嬉しいような表情を少年は浮かべている。
人と人が出会えた奇跡。
それが彼の、神の加護。

「ここまで来れたのは、君達がいてくれたからだ。
君達に出会えて本当に……良かった。」
さわさわと草木は揺れ、朝の木漏れ日がちらちらと踊る中。
人は街に、魔は野に。
というのに街を守る無冠の緑の王まものは、真直ぐこちらに手を伸ばし、握手を求めた。


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