曇天、虹色地平線 緑の公国 3 帰還



「若葉宮様の御帰りだ!」
ラシューが街を歩くにつれて辺りから上がる叫び声の量が増していく。通りのあちこちから人が駆けて来て、ラシューの緑の髪を見るなり「御帰りなさい」と叫ぶ。

「若葉…!?」
思わず口に出してしまったイリスは慌てて黙った。おおかたラシューがリドミの次期即位者だと言っていたのを今思い出したといったところか。普通忘れないだろ。
それはいくら世間知らずのイリスだとはいえ、さすがに甘く見過ぎかな。

こそこそ近寄って来たイリスが耳打ちする。
「そういえばラシュームさんって王子様だったんですよね。」
そうでもなかったか。ちょっと脱力した。



こいつどこへ向かってるんだ?

聞くにもわらわらと集まって来た人々の視線があるので聞くに聞けない。
ラシューに続いて三人で歩いているだけなのに、なんだか凱旋パレードか何かのような気分になってきた頃、街の中心の方から走って来る人影がある。それを見た途端ラシューは歩を緩めた。

詰め襟の儀礼服のようなものを身に着けた若い男だ。濃茶の瞳のその男は何とか呼吸を調えようと、立ち止まり肩で息をする。やっとの事で叫んだ。
「ラシューム様!ようこそ御帰りに…!」
「クーヴァ。御出迎え有り難うございます。」

___ございますっ!?

聞き慣れた声の聞き慣れない口調に振り向くと、見たことがないような柔らかい笑顔で答えるラシュームがいた。
クーヴァと呼ばれた青年は感涙を流しながら走り寄る。小柄なラシューと並び立つと背丈の違いが際立つな。中肉中背と言うにはやや筋肉質か。
「毎日旅の御安全を風神ドウィン様にお祈り申し上げておりました!」
彼はきびきび敬礼する。そこにラシューは大人びた微笑みを返し、
「私はこうして無事に帰って来ました。貴方の祈り、届きましたよ。」

「ラシューム様あァ!」
どうやら限界だったらしい。クーヴァは右手の平で顔を覆い咽び泣き出す。そんな彼の肩に優しくラシューは手を置いた。
その姿は慈悲深く懐の広い賢者そのもので___って…待て待て待て!

呆気にとられ思考停止していた自分を奮い立たせた。
あれはラシューだぞ?

“二人はさ、今まで見て来た僕が本当の僕じゃなかったら___ショックを受ける?”
あいつの言葉はこういう意味だったのか?
今までの自分は嘘で、この自分が真実(ほんとう)。

だが…どちらだろうとどうでもよかった。
““本物”だと証明出来なければ僕の居場所はどこにも有り得ない!!”___そう叫んだ時のあいつは紛れもなく真実だったのだ。

お前の言う現実をじっくり見せて貰おうじゃないか。
おそらくお前の信頼の表れなのだろうから。

騒ぎを聞き付けて多くの人々が駆け付けてきた。歓迎はされてるみたいだな。
「この旅で、広い世界の一端をこの瞳で見る事ができ、非常に勉強になりました。」
自分へ向けられた笑顔、笑顔、笑顔にラシューは始終微笑みで返す。

だが…どこか変だ。
もちろんラシューが別人の様な言動をしていること以外だ。しかし俺は不快感の正体を見つけられないまま考えを止める事になる。
懐から出した白いハンカチで涙を拭いたクーヴァの視線がこちらへ向いたのだ。

「こちらの方々は…?」
思わずイリスを見た。今まで時紡ぎである事を伏せても伏せなくても厄介事に巻き込まれている。今回はどうするんだ?

だが何やら怒ったような顔で考え込んでいたイリスは、それについては何も考えていなかったらしく慌て始める。ラシューが素早く助け船を出した。
「道中一緒になった旅の方達です。不慣れな私に様々な事を教えてくださりました。
次の目的地がリドミの近くでおられる様なので、ここまでご一緒に。」
嘘も誤魔化しもない用意してあったかのような返答だ。もしかすると本当に用意してあったのかもしれんが。

「そうなのですか!
私からも御礼申し上げます。」
クーヴァの視線が見る間に感謝に満ちたものに変わる。深々と頭を下げられた。綺麗な九十度だ。
几帳面という印象は受けるが…それがこちらへ向けられると対応の仕方に困る。

「御二方。今まで御世話になりました。
少しばかりの御礼しかできませんが、あちらで御休憩でも___。」
ラシューが(驚くべき事に)柔らかな物腰で一礼し、右手で指し示したのは、町の中心にそびえる大木___いや、大木に彫り込まれ造られたリドミの宮殿だった。



イリスは宮殿の中に一歩入るなりまた歓声をあげる。無理もない。落ち着きなく周囲に目を走らせている自分に気がついてちょっと恥ずかしくなった。
あの丘の上から、俺はろくにイリスと喋っていない。
あの時___黙って沈黙の山脈を見つめるイリスに思わず聞いてしまいそうになった。

お前と“旅人さん”はどんな関係なんだ?

俺らしくない。踏み込みすぎだ。人はそれぞれ心中に様々な思いや過去を抱えていて、それは好奇心なんかで暴いていいものじゃない。
聞いてはいけない。イリスもそれを望まないだろう。
仲間だから全てを話さなくてはならない、なんて決まりはない。むしろその心中をさらけ出したくなった時、黙って聞いてやるのが仲間というものではないのか?

後から考えると、おそらく俺にはまだ、この気持ちが真に自分から出たものだという確たる自信が無かった。



リドミの宮殿は特殊だ。
話だけ聞いて抱いていたイメージ、ウロのような感じは全くない。木造の円形建築物という印象で、安定感がある上どこか安心する。琥珀色した窓は透けていて樹液を固めたものらしい。繊細な木目の細工に曲型の柱が組合わせられ、見る者に与える印象はまるで…
「まるで神殿みたいだな。」

何となく発した言葉に答えて、ラシューが傍らに並んで小声で話した。
「本当の神殿もあるんだけどね。」
口調も元に戻っている。クーヴァは応接間の準備をしに先に行ったし、他の人々も距離を開けて手を振るくらいなので、端からでは内容は分からないだろう。

神殿か。なら当然…。
「例のイゴス様を祭ってるのか?」
「もちろん。
他にも賢者イラエ様とか霧の守護ギルツ様…」
ラシューの並列に思わぬ単語が混ざる。

「…“霧の守護”?!」
「そりゃロノクス様は時紡ぎなんだからね。霧の守護もいるさ。」
確かに“時紡ぎ”だの“賢者”だの会った時から言っていた気がする。ラシューは喜々として喋り出した。
「神殿には色んな物が祭ってあるんだ。イラエ様の御使いになったと伝えられる柄杓とか、ギルツ様の愛剣と伝えられる岩に刺さったまま抜けない剣とか!」
「…そうか。」
そりゃあ実物だったら凄いが…全部に“と伝えられる”がつくんだろ?

俺の返事に不満げなラシューはなおも言い募ろうとするが、近くから聞こえた呼び声に反射的に口を閉じたようだった。
「ラシューム様!」
見た事がある顔どころか。先程まで感涙を浮かべていた顔に、濃茶の瞳の男は誠実そうな笑みを浮かべた…ように見えた。

「あれっ…さっきの…?」
イリスも不思議そうに呟く。だがラシューは先程とは別の名を呼んだ。
「キーヴァ!」
「御帰りなさいませ。」
彼は片手を胸の前に添え、洗練された礼で答える。今度は四十五度だ。

次に俺達の方を向いて微笑んだ。さっきの奴とは違い、始めから俺達の存在に気がついていた感じだった。
「おや、お客様ですか。
弟に会われたのですね…御恥かしい。」
右耳につけられた耳飾りが光る。挙動を見れば別人なのは瞭然だった。弟の方がきびきび動いているが、兄の方が洗練されてる。

「キーヴァとクーヴァは双子なんです。
キーヴァは叔父さんの仕事を手伝って下さっていて、クーヴァは私の世話をして下さっています。
いつもすみませんね。」
そんなラシューに畏まってキーヴァは答えた。
「いえ。
シーフレッド家の家命ですので。」

王家に代々仕える家系とかいうやつなのだろうか。
辺りを見回したキーヴァは眉をしかめ表情を厳しく一転させた。
「それにしても…お客様とラシューム様を放っておいて、あいつは何をしているのか…」
めら、と目に炎が灯る。運の悪い事に丁度クーヴァが戻って来た。

「兄さん!?」
「クーヴァ。しっかり仕事しなさいね。
___話があるので後で来なさい。」
兄は弟へさっきの形相が嘘のように、にこりと笑ってみせる。目は笑っていなかった。

「…こ、こちらです。」
引きつった笑顔を浮かべた弟はそそくさ俺達をその場から立ち去らせ…もとい案内する。

ラシューのあの追い詰められようから予想していたより、ずっとこの国はまともじゃないか。そう思おうとして引っ掛かる。さっきの不快感のせいに違いなかった。
リドミ宮殿の応接室は四隅を柱に囲まれている長四角の空間だ。だがよく見ると、その柱は巨枝であり、やはり部屋全体に木の香りが満ちている。

ラシューは俺とイリスを先に部屋へ入れ、自分に続いて入って来ようとしたクーヴァを制止した。穏やかに、吹かば飛ばん風情であるが毅然とした態度だ。
「すいませんが…貴方は叔父様にお知らせに行ってくださいませんか?」
一瞬クーヴァの瞳が相手を伺うように真剣になる。だが結局ラシューのまなざしに気おされ、小さく頷いて走り去った。

ラシューは相手がいなくなったのを確認してからパタンと扉を閉める。大きく溜め息をつき、身体を投げ出して椅子に腰掛けた。
もういいらしい。さっきの奴等が見れば嘆きそうな光景だな。



僕をじっと黙って見ていたレイは、ついに口を開いた。

「ラシュー、これは…?」
来る質問は分かっていた。だからこの間は、互いに言葉を選ぶ時間。

「これが僕の自衛手段だよ。」
芝居がかった仕草で答える。“芝居”としか言い様が無かった。
シナリオのない芝居。参加しない者に芝居(みらい)を決める権利は無い。自分の未来を自分で決するには必要な犠牲。
「ここで生きて行く為には仕方ないんだ。」

「…よくないです。」
黙っていたイリスちゃんが顔を上げた。
「今まで一緒に旅して来たんです。分かりますよ。
ラシュームさん、一度だって本当に微笑ってないじゃないですか。
この国はおかしいです。
こんなに人がいるのに、誰もそれに気付かないなんて!」
彼女は固く握った手を震わせて言う。どうして僕以上にイリスちゃんが辛そうなのかが分からない。

「…問題ないよ。
皆が見ているのは“王位継承者の緑の民”でしかない。だから僕も“それ”を演じるだけ。」
「そんなのおかしい___」
そんなの分かってる。分かってるけど___。

真直ぐ見つめてくる少女の瞳を見ていたくなくて突き放す。
「じゃあ言ってみてよ?他にどうすりゃいいのさ!!
帝王学を学びもせず、王位の取り合いをする基盤もない。ぽっと出の若僧が生き延びる術を。」
ただ髪が緑なだけ。首都に味方もツテもない。
宮廷は怖い。丸腰の子供なんてあっと言う間に。

「…僕が“立派な緑の民”を演じている間は誰も手が出せない。“魔術”だってそのための小道具さ。」
民心を味方につける以外にどんな保身法があったろう。

それでもイリスちゃんは泣きそうな顔で言った。
「でも、嫌じゃないんですか?」
「____!」
言葉を失う。

もちろん嫌だよ。嫌でしょうがない。

「あの時、ナレークで…ラシュームさんが、あの子の“現実を改変させようとする努力”を認めたのを凄いと思いました。
なのにどうして自分もそうしようと思わないんですか!?」
その口調は子供にも出来る事をしないと責められているようで堪らない。
カッと頬が熱くなる。自分が王権闘争から逃れられないと知ったあの日と同じように。
どうして?…そんなの決まってる。

出来なかったから。

「…イリス!」
叱責の声。それを発したレイは持っていたティーカップを置いた。今まで悠々とお茶を飲んでいたみたいだった。
「っ、レイさ…」
「そこまではお前が突っ込むべき事じゃない。
ラシューが決める事だ。」
肘をついた手で顎を支え、レイは静かに言う。彼の瞳が鋭いくらい真直ぐに僕を捉える。___あの夜とおなじだ。

今なら打ち明けられるかもしれない。

不意にそう思った。でもそれを口にする勇気が出ない内に、扉をノックする音が響く。一緒に届くのは焦ったクーヴァの声だ。
「マクスマレーン様が直ぐに御会いしたいそうです!」


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