曇天、虹色地平線 緑の公国 6 賭



仕度が終わったぐらいにキーヴァが現れた。静かな笑みを浮かべて伝える。
「マクスマレーン様は神殿におられます。」

神殿に?
いつもの執務室や私室ではないのか。
叔父さんも今までとの決定的な違いを感じ取っているのかも知れない。

「分かりました。今から参ります。」
ラシュームは穏やかな笑顔で返す。
叔父さんとさえ分かり合えたら、もうこんな自分を演じる必要は無い。
でも分かってる。
これは甘えだ。
けど今だけ、叔父さんの前に立つまでだけでいい。“呪い”に絡めとられているって事にしておいてはいけないだろうか。
今日さえ終われば、きっと全てがよい方向へ進む。
叔父さんはいい王だから___

キーヴァは一歩退く前に囁いた。
「ラシューム様、ひとつ御耳に御入れしたい事が。」
「…何です?」
彼の表情でいい話ではないのはすぐ知れた。彼は鬱々たる面持ち言葉を紡ぐ。

「非常に申し上げ辛い事なのですが…。
ラシューム様が旅に御出になられてから、リドミの税は三倍に跳ね上がっています。」
「へっ……!?」
諸国を巡ってこの目で知った。
税は人々の生活を左右する。いたずらに高税をとってもその生活を破綻させる事にしかならない。

そんなこと許されない。

しかもそもそもリドミの集税率は高く、何ら国庫に問題は無かったはずだ。
なんでさ、叔父さん。
「何かあったのですか?
飢饉や自然災害、軍備拡大など…?」
「いえ。特に変わりは御座いませんでした。だから不審なのです。
マクスマレーン様の御真意を伺える立場に我らは御座いません。しかしラシューム様ならば…。
ほんの僅かに御心に止めていただけるなら幸いです。」

「わかりました。」
緊張した面持ちで僕は答えた。税なんかよく分からないけど、僕にしか出来ないなら尋ねるしかない。
僕はリドミの王族なんだから。
ラシュームが扉を閉めた後、ひとり部屋で静かにキーヴァは笑った。送り出した少年とよく似た面差しの一人の女性を思い出しながら。



山脈に分け入る森の小道は狭く、次第に獣道の様相を呈して来る。
足元の大きな石に蹴躓き今日何度目かよろめいた。

「大丈夫か?休むか?」
私を気遣ったレイさんも、また今日何度目かこう尋ねる。
「…大丈夫です。」

こんな事が前にもあった気がする。
あの時と違い漠然とした期待が薄れた分、今では世界を真直ぐ見る事が出来る。
世界は哀しみに満ちている。
盆地から出る前に想像した世界は希望に溢れていて、今では思い出すだけで胸が痛む。
だけど___。
随分レイさんが近くなった。手を伸ばせば届く程に。

思わず後ろからレイさんの袖を掴んだ。当然振り返った彼に言葉に詰まって、ちょっと言いよどんだ。
「やっぱり、少し休憩したいです。」
「そか。」
レイさんはちょっと眉を上げてみせる。何故だか嬉しそうに言った。

鬱蒼と生い茂った樹々のせいで辺りは薄暗い。殆どの枝が木の葉を落としてしまっていて、どこか物悲しかった。
レイさんは辺りに気を配っている様子も見えない。だがそれは自分の浅はかさだったようで、急に彼の口許が引き締まった。
「上だ。」
彼は私が反応できない内に動いた。
ワンモーションで引き抜かれた剣にすぐさま白銀の輝きが灯る。光は敵を照らし出した。

それは大きくて黒かった。
節くれ立った細長い姿は幾本もの影を地に作る。

「…蜘蛛、の。」

悪夢でも見た様にレイさんが呟く。びくり、と彼の肩が震えたのが後ろからでも分かった。
それは確かにむくむく太った蜘蛛の脚の様に見えた。
しかしレイさんはおそらく目に見えているもの以上のものを視ている。
それが何なのか私には分からない。

不規則に蠢く脚は意思を持ち、こちらへ向かって来る。
暗がりそのものの不吉さしか感じさせない黒。控え目な太陽が作るぼんやりした影よりもなお真っ黒い。

気が付けばしげしげと眺めてしまっていた。レイさんに引っ張り下げられる。
「イリス、下がっとけ!」

叫んだ彼の表情は蒼白だった。
この表情を知っている。鮮烈に記憶に残っていた。
私が始めの一歩を踏み出したあの山で。
テープを握り締めた渇いた音さえ頭に残っている。
まるで彼自身の耐えがたい記憶を握り潰そうとしているような、哀しい音。

「来るぞ。」
始めは蜘蛛の脚に思えた黒い魔物は、その脚を使い爪のごとき斬撃を繰り出す。
一本一本が不規則に繰り出す攻撃。並の剣士なら混乱してしまったろう。
しかし刀一本で器用にそれを受け流したレイさんには初めて見たものでは無かった様だった。
同時攻撃だからか命中はそれほど高くないらしい。それでもそれた斬撃は一撃で近くの岩を断ち切った。

…私も戦わなくては。
私を庇ったままではレイさんも攻撃に移れない。

筆を持とうとポケットに手を入れた。その拍子に何かひんやりしたものに触れる。つるつるした硝子の指触り。
小瓶?

入れた覚えはない。いつから入っていたのかも分からない。
いつも筆を入れているポケットの奥の奥だ。
そういえば、“あの時”筆は違うポケットから出て来たんだっけ___。

「きゃあ!」
事実と事実を思考が結び付ける前に、死角から猛然と一本の脚が迫る。反応が遅れた。
私を引き寄せたレイさんは横っ飛びに跳んだ。宙を掻いた脚は地を這ってスルスルと移動する。
じっと地面を見ていた彼は、夢から覚めた人の様に明瞭に言った。

「…根だ。木の根だ、イリス!」

軽いパニック状態の頭では意味がよくわからなかった。
彼の声に答えるように地面に亀裂が走る。

木は火に弱い。
「燃やせ!」
「はい!」
ただ火を放てばよい事だけを瞬間的に理解する。
亀裂の中心を突破り、黒い影が躍り出た。
空を滑る筆は尾のある炎を生み出す。息をするのと同じくらい容易い。



呪文詠唱のタイムラグも無く出現した天敵を、残像を残す程の速さで迫る根は知覚する間も無かったに違いない。
とはいえ、これを食らわせられたからと言って、一つの根を焼いただけにしかならない。だが自分には勝算があった。

このモンスターは俺とイリスを同時に狙いはしなかった。
それはおそらく一体のモンスターだからだ。
ならば何本あろうと根元で繋がってる可能性が高い。

「外すなよ!」
そんな心配はないと知りながらも、知らずのうち口走っていた。
黒い根がイリスを射程に捉えるより前に、イリスの手元で爆発的な火焔が生じる。炎の渦は大口を開け獲物に躍りかかった。

しかしモンスターは逆に勢いを増し炎蛇に飛び込んだ。
「体当たり!?」
ぱっ、と火の粉が飛び散り煙が上がる。
次の瞬間にはその煙を突き抜け突っ込んで来る黒い影があった。

「まずい…抜けたぞ!」
イリスは動けない。動けたとしても避けられる速度じゃない。
魔法の軌道を塞がない様にずらしていた身体を腹筋で押し戻す。なんとか片牙は攻撃を受け止めた。
初めて剣の芯を捉えた根は、ここぞとばかりに巻き付いて来る。
押し止めるのがやっとだ。振り抜こうと柄を両手で握り直しながら、レイは考えるのを止められなかった。

最近防戦一本だな。
自分には十分な打撃力がないのだからしょうがない。だがそれが、ものすごく歯がゆい。もどかしくて仕方がない。
自分に力があればイリスを危ない目に合わせなくて済むのに。

「…いやっ!」
背後からの悲鳴に我に返る。次弾を放とうとしているはずのイリスを、自分は庇い立っているはずだった。
同時に背中に熱風を感じる。それはこちらに向けられたものではない。
この時斬り結んでいたモンスターがたじろいだ。正面から熱風を食らったのだ。
「おし、っ!」
緩んだ束縛から擦抜けて、返す刀で斬りつける。ぼとり、と切り落とされた脚先…いや根っこの先が落ちる。一本切り落としたからとはいえ、まだ倒せない。

相手が怯んだすきに振り返った、が。
遅かった。
新手の黒い根に絡めとられた少女は、地面の亀裂に引きずり込まれようとしている。伸びたバネが縮むのを思わせる速度で根は穴へと戻って行った。

まだ追いつける。

しかし近付くにつれ地割れは別の様相を呈す。
「…ただの穴じゃない。」
少し深い位置にアッシュが使ったような転移魔法の光の輪が、ゆらゆらと光を放っている。

頭の中でパーツが組合わさる思いだった。
道理で捨て身すぎるはずだ。
火に弱い生き物が反射的に炎に飛び込んだり出来るものか。
誰かが操っていたんだ。この向こうから。俺達の様子を見ていたそいつが機を見て新手を投入したという事だろう。
それに気付かず読み間違えて、まんまとイリスをさらわれてしまった。

俺の責任だ。
がむしゃらに円を狙い飛び込む。だが足は土の感触しか伝えない。魔法が閉じかけているのだ。
血の気が失せた。
ここで振り切られてしまったらイリスはどうなるんだ。

泥が付くのも構わず輪の辺りを撫でる。四つん這いになり腕を肩まで突っ込むと、中心付近で、ずぼりと右手が通り抜けた。
「しめた!」
しっちゃかめっちゃかに触れるものを掴む。一瞬だったが誰かの手首みたいなものに触れた。

「………!」
ふと輪の光は力を振り絞るように瞬き消えた。右手はより多くの重量が残されている方に押し戻される。
立ち上がる力無く、地面に頭を落とした。冷えた土の匂いも額の泥の感触も自戒の念を沸かせるにしかならない。

…道が断たれた。
俺独りではこんなにも無力だ。分かっていたが、こんな形で思い知らされたくはなかった。
いつだって自分の近くにはあの三人がいた。なんだかんだ言いながらも、あいつらがフォローしてくれてたんだ。
仲間を失ってから自分の無力さを痛感した。自分に自分で失望した。

でも何故だかイリスにはそう思って欲しくない。

脳裏に浮かんだ黒い三匹の蜘蛛を打ち消す為に、さっと立ち上がる。
「まったく、あいつ…いつものさらわれ癖かよ…!!」
自分を落ち着かせる為に言ったようなものだ。

奴等にとってイリスは“生かしておくから”価値があるのだ。もしそうじゃなかったら何度死なせたかわからない。
無力と知りながらその無力をどうにも出来ない自分。
「なんて…不甲斐ない。
俺は___。」
龍牙と呼ばれた男だというのに。

固く拳を握った拍子に右手から何かが滑り落ちる。
この季節なのに碧々とした広葉樹の葉だった。


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