曇天、虹色地平線 緑の公国 7 閉ざされた扉



神殿の空気は清冽だった。リドミの樹と一体化しているこの王宮特有のものだ。
そしてこの部屋には大きな穴があった。黒々としたその穴を有するのは、ただの壁ではない。リドミの樹の核と言うべき部分である。
おそらく樹の奥の奥に繋がっているのだろう。神秘の生命の根源へと。

しかしその清らかさは自分を突き放す仮面だ。マクスマレーン王はそう知っていた。

ただの“人”にすぎない己にはリドミの真の姿は明かされ得ない。その権利を有するのは“緑の民”のみ。
どんなに王とあろうとしようが、自らを拒み続けた神体。

マクスマレーン王は冠を外す。これから行われる事は王として相応しくない。自らの青い髪を整えながら王は思った。
いや、これ以上無いくらいリドミ国王にはおあつらえむきなのかもしれない。
この髪が緑ならばと何度思っただろうか。
穴の近くへ歩み寄ってみたが中を覗く気にはなれなかった。

背後で扉が開き、また閉ざされた気配がした。ぴっちりと閉まったそれは、この空間が外部から遮断されていることを実感させる。
もう逃げられない____逃がさない。
「叔父さん。」
部屋の中程まで近付いて初めて、甥は私に声を掛けた。

「話があるのだと聞いたが。
どうしたのだ?」
相手の様子に妙な違和感を覚える。それが一体何なのか、すぐにわかった。
昔のままの口調で甥は話す。

「もういいんだ。」
静かに呟かれた言葉は、うちに強い感情を秘めていた。
緊張感が膨れ上がる。
甥はどう出るつもりなのか。

「僕は王位継承権を放棄する。」

想定外の台詞に絶句した。やっとの事で声を絞り出す。
「……ラシューム。」
甥は唯一自分を屠れる短刀を捨てるというのだ。
「何故。」
「だって、僕は叔父さんを退けてリドミを治める気は無い。
継承権なんて不必要なんだ。」
こんなに強い口調で話す甥ははじめてだ。いや、ずっと昔にあったかもしれない。自分が王になるより、ずっとずっと昔に。

乾いた唇でぎこちなく言葉を紡いだ。
「仮にお前がそうだとしても、民が認めまい。」
「形だけ協力統治とでもすればいい。実権は皆叔父さんが持てばいいじゃないか。」
確かに彼は結論を引っ提げて戻ったのだ。
でも、私は___

「信じられぬ。」

「叔父さん!」
「口約束では信じられぬ。みすみす甘い言葉を信じるものか。」
自分を真直ぐに見つめる甥の目を見返すのは酷い苦痛だった。
いつからだろう。いつから私は彼を真直ぐ見る事が出来なくなったのだろう。

懐から液体の入った硝子の小瓶を取り出す。
まさに先程手に入った薬。
何故かその液体の暗い濁りは私を安心させた。
「ここに一つの薬がある。
人と魔の境を越えさせる薬だ。飲めば人が魔になれるという。おそらく魔であるお前が飲めば___。」
人になれる、はずだ。

甥は何も言わない。食い入る様に私の持つ小瓶を見つめている。
「本当の意味で継承権を捨ててみなさい。
話はそれからだ。」
王家の闇を担ったこの薬を、甥は存在すら知らないだろう。もし知っていたならば飲むだろうか?
飲まないと言うならば、とらなくてはならない行動は分かっていた。
何故だかこんな薬を肉親に黙って飲ませる事に付いての罪悪感は湧かない。

「…分かった。飲むよ。」
知ってか知らずか甥は硬い声を押し出して小瓶に手を伸ばす。
澱んだ液が禍々しく揺れた。
まさにあの日と同じように。

私とこの甥の人生が変わったあの日。耳に残る悲鳴は残虐な思い出が風化するのさえ許さない。
あの時私は学んだ。
力無き者に未来は無い。
容赦も手加減も最終的には自分の首を締める事にしかならないのだ。
それなのにまだ忘れられなかった。血に濡れたあの腕の暖かさを。



「兄さん!どいてくれ。」
神殿の扉の前で弟は何とか兄を説得しようとしていた。その繰り返しも虚しく終わり、表情に焦りだけが募っていく。
扉は厚く、中の声は僅かも伝わって来ない。外のこの騒ぎも中には伝わっていないに違いない。

入り口の両開きの扉にもたれかかったまま、キーヴァはすげなく答えた。
「それはできない相談だな。私はマクスマレーン様の御命じ通り扉を守っている。」
「確実におかしいじゃないか!
今、マクスマレーン様が魔法をお使いになる必要がどこにあるんだ。
この中では尋常じゃない事が起こっている。」

王家の補佐を仰せつかってから、シーフレド家に与えられた力がある。
それは“魔法感知”だ。
周囲で行使された魔法を知覚し、王に不審なものが近付かないように番をする為の力。
それを立派に受け継いでいる弟は、今ばかりは少し厄介だった。

もちろん自分も大気を走る魔法の感覚を知覚している。事態は自分の望むままに好転していた。もちろんこの弟の追及も想定の範囲内だ。
だからこそ絶対にここは通せない。

「私をここから退かせる事が出来るのは、王家の人間のみだ。」
「………っ!」
それは事実上“退かない”という意味だった。王家の生き残りはたった二人。その二人ともがこの部屋の中にいるのだから。
「…兄さんはおかしい。
王を守るのが使命なら、今すぐ中を確かめるべきじゃないか!
何かが起きてからじゃ遅いんだ!」

弟はある若い緑の民の少年の身を案ずるばかりに不安に苛まれているようだった。弟までもが、この狭い世界に囚われているのだ。
絶対に願ってはならないと心に決めていた言葉は、いまでは無視出来ないほど心中で大きく膨れ上がっていた。
お前にだけは分かって欲しい。
ならないと分かりながら、言葉が唇から滑り落ちるのを止められない。

「何か…ね。別にいいじゃないか。
“王は緑の民でなくてはならない”この国のあり方の方がおかしいんだ。」

「な____?」
弟の硬直した表情に満足を覚える。どうやら自分は平静を失っている様だった。
もしかするとあの緑の御方の思し召しかもしれない。この騒乱が終わり…自分が死ねば、あの日の真実を知る者は失われるのだから。

「なぁ、クーヴァ。
リドミ王家には官僚のトップがいない。行政、治安、外交…全ての組織が国王マクスマレーン様に直属しているからだ。
だからこんな緊急事態に対応できない。
なぜだか…いや、いつからか分かるか?」
弟は信じられないものを見ているように眼を見開いたままだったが、ようやっと首を振った。

知るはずがない。
あの時、自分は既に父とリドミ王宮にあがっていたが、弟は未だ家命も知らない子供だったのだから。
それにメーコック様の代になってから、あの日はタブーとして語られる事もなかった。

「マクスマレーン様の兄上、先王メーコック様が全員の首を刎ねなさったからだ。」
「…!?」
「旧来、各組織の頂点はリドミ王族の方が務められる。王家の繋がりで王の地位を固めるのだ。
しかし先々王が崩御なさった混乱の中…メーコック様はフロール様を手に掛けられた。緑の民の証が出られたフロール様に、長子である自分が継ぐはずだった王位を奪われるのが嫌だったからだ。
その際メーコック様は主だった王族も皆殺しにされた。」

当時、警察組織のトップであったメーコック様には不可能な事ではなかったろう。
先々王が急死なされずフロール様に軍事権を譲渡なさっていれば話は違ったかもしれなかったが。
ごくり、と弟が生唾を飲み込んだ。
お前はこの国の闇を何も知らない。
それでよかった。お前がそんな事を知る必要は無い。
弟が本気で緑の民を崇拝しつつある今になって、そうも言えなくなってきたが。

「フロール様って…?」
「知らないのか。
フロール・ギャティナ・リドミリェーラス。ラシューム様の御母上であり、マクスマレーン様の姉上であり、メーコック様の…実の妹君だ。」

ひっ、とクーヴァは声を上げた。
もはや存在すら大っぴらに語られる事のない緑の御方。あの方の笑顔を弟が見る事はない。痛みにも似た寂しさが胸に走った。
「父さんはそこで殺された。
だが一緒にいた私は殺されず…父の代わりにメーコック様に仕える事になった。」
声が震える。
もう一欠片の真実を飲み込んで言葉を切る。

首の無い死体が並ぶ中で血を吐き転げ回る父さん。立ちすくんだあの御方は口を両手で押さえて悲鳴を押し止どめていた。
辺りを満たす濃い鉄の臭いが___。
おそらくこの事実は、永久に闇に葬られるのが相応しい。

「___そのメーコック様が姿を消されたのは、マクスマレーン様が手に掛けたからだと言われている。」
「じゃあラシューム様が!!」
弟は悲鳴をあげた。
こんな時にどんな表情をしていいのか分からない私は、取りあえず笑みを浮かべてみる。
これくらいで混乱するならば、私の考えている事を知れば一体どんな反応をするんだろう。

「あの方も簡単にはやられないだろう。
互いに潰し合って、なるべく力を削ぎ合って頂きたい。
少なくとも私にでも弑逆奉れる程には。」

「…し、いぎゃく?」
「これ以上はっきり告げる言葉を知らないのだが。」
「許されない…。そんなこと。
兄さんも言ってたじゃないか。リドミ王家に忠誠を誓うのが僕らの使命だって。」
恐れおののいた様子の弟は目に涙すら浮かべている。それに感じるはずの感情は、既に…ない。
私が縛られている“呪い”にお前までもが縛られる必要はないんだ。

「クーヴァ。考えてもみろ。
王族が王位を巡り殺し合う。身内殺しの策略の中、生き残った者が王となる。
しかし王の器とはそういうものか?
この国は病んでいる。」

“王族に生まれたから王位に就くものだ”…その慣習が誰を幸福にしただろう。
人任せで幸福を得ようとしていたのが間違っていたんだ。
悲しみの連鎖は私が断つ。

「王は“神”ではない。緑の民も“神”ではない。
私達は私達自身により治められるべきだ。」
相手は肯とも否とも答えない。

彼の目に私はどう映っているのだろう。
その表情を伺うより早く、通路の角から足音がした。
弾かれた様に一斉に視線がそちらを向く。
「取り込み中の所、悪い。」
旅立ったはずのラシューム様の客人だった。

「…貴方は。」
二人連れだったはずだが、どうやら一人のようである。冒険者の男は唇の端に笑みを浮かべていた。しかし目が笑っていない。
ここに来て初めての不測の事態だ。嫌な予感しかしない。
「すまんな。立ち聞きしちまったよ。」
「で、どうするおつもりですか?」
礼儀正しく返す。内心冷たい汗が背を伝っていた。
相手は冒険者なのだ。信用できるたぐいの人間ではない。秘密を握られてしまった今、相手の出方を伺う必要がある。

「特には何も。」
さあ?、と言いたげに両手を広げられる。
どうやら彼は別の事に頭が一杯のように見えた。

「あんたらに聞きたい事があるんだ。
うちの連れがさらわれてしまってな。その場にこれが残されていた。
見覚えはないか?」
さらわれた?
それがうちと何の関係があるんだ。

男が見せたのは一枚の広葉樹の葉。
不思議なことに、この季節だというのに鮮やかな緑色をしている。
「……っ!」
“常緑の樹”としか考えられない。

弟もそれに思い当たった様だった。
中庭という位置上、偶然葉が一枚紛れ込んだとは考えられない。誰かリドミ王宮の人間が関わっている。
呟いた弟の声は静かだった。
「…兄さん。確か、ずっとずっと昔に言ったよな。
“常緑の樹”の下には神殿に繋がる隠し通路があるんだって。」

「クーヴァ!」
弟は後ろも振り向かずに走り出した。男もそれを追いかける。
自分の制止の声だけが虚しく響く。
事態は想定も出来ない方向に転がり出した。扉にもたれたまま目を閉ざす。
打つ手を早急に考えなくてはならない。
事態は既に加速し始めた。おそらくもう止まらない。
付いて行けなくなった時に待つものは身の破滅だ。


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